私の望み
こんな私なのに、イエス・キリストは決して見捨てない。
それだけは疑いようもない真実。
そこに、私の希望がある。
キリストだけが私の望み。
この望みだけは、何があっても奪われることがない。
【わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。】ヨハネ14:18
いや、こんな私だからこそ、
救っていただくしか術がない私だからこそ、
イエス・キリストは自らこの地に降りてきてくださった。
罪にまみれて見るべきものが見えず、
正しい道に歩む能力を全く持たない私のために、
キリストが人となって義を全うし、
身代わりとして十字架で神の怒りの杯を飲み干して裁きを受け、
罪人が救われる道を開いてくださった。
【何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。】ローマ4:5
自分が絶望的に思える時がある。
生きる望みが消えそうでもだえる。
しかし、そもそも、自分という存在は絶望的な者だという事実を忘れてはならない。
ちょっとは見込みのある人間のような気でいるから、衝撃が大きいのだ。
そもそも自分はどんな存在で、何がふさわしいのか...。
キリストは絶望的な私に驚いたりなさらない。
当てが外れた...と態度を変えたりなさらない。
こんな奴だったのか...と去っていかない。
だいたい、私がどんなに自己嫌悪したとしても、
聖なる神の前で明らかにされる絶望的罪人の実体からすると、いくらもわかっていないに等しい。
キリストは、私がどうなろうとも、最後まで永遠に、共にいてくださる。
事情が変わっても離れていかない。
決して心変わりせず見捨てない。
これこそ、私の救い。
キリストの愛を知る人生に導かれて良かった。
揺らがない拠り所を与えられていて、本当に良かった。
永遠の御国に心を寄せて、夜は眠りにつき、朝には起きることができる。
たとえ倒れることがあっても、主が絶えず支えてくださるから。
【御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだのあがなわれることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。】ローマ8:23−24
主よ。
この地上で与えられた人生を、
最後まで全うすることができますように助けてください。
あなたの一方的な恵みがそれを成させると知っているので、
私には望みがあります。
私はあなたの御顔を慕い求めます。
みことばの教えを乞い求めます。
あなたのみことばは変わることがありません。
あなたに喜ばれる真理の道を歩みたいのです。
あわれんでください。
恵みの上に恵みを増し加え導いてください。
キリストの御名だけがあがめられますように。