愛に気づくキッカケ
私の夫は晩酌をする。
私が夜に外出し帰りが遅くなったある日、
私の帰宅に「おかえり〜」と応じてからほどなく、
「さぁ〜て、一杯やるか」
おもむろに冷蔵庫を開けてお酒に手を伸ばす夫。
...ん?
こういうこと、前にもあったなぁ...。
私は夫に尋ねた。
「もしかして、私が帰るのを待っていてくれたの?」
「いや、なんかあった時、飲んじゃってたら車で出動できないからさ」
さらりと答える夫。
胸がじ〜んとした。
これまで何度こういうことがあったのだろう...。
私が気づかなかっただけで、私の遅い時はいつだって、
「何かあったら駆けつけることができるように」と意識して、私の無事を確認するまでスタンバイしてくれているのだ。
そして、何事もなく出番がなければ、それが一番。
無事でよかった...と、リラックスモードになるのだ。
「あなたのために私はこんなにしていたんだよ!」とアピールもせずに...。
私を助け守るために陰ながら努力してくれている夫を、私は尊敬する。
我が夫ながら、こういうことができる男性って、頼もしくて素敵だな〜と思う。
私が心からの感謝と尊敬を言葉にすると、
「そんなことないよ〜」と夫は照れ笑い。
私の夫は口下手なのだ(笑)!
言葉ではない方法で表現されている夫の愛情に、私はもっと敏感に気づく妻でありたい。そして大いに喜び、感謝を伝える妻になりたい。
私はどんなにかあなたによって守られていることか...。
私の知らないところで注がれている愛がどれほどあるのだろう...。
まして、神様の恵みは、どれほど繊細で豊かに、私を24時間365日絶えず覆い支えていることだろう、と思わずにいられない。
何事もなければ、備えられていたことにも気づかない。
私たちは恵みに鈍感だ。
「失って初めて大切なものに気づく」とよく言われるのも、そのせいではないか。
心臓が正常に動いていても、保たれている恵みだと感動しない。
今日、太陽が規則正しく昇って沈むことに、愛の意図を見ることができない。
家族が無事に帰宅しても、神の守りに心を向けることがない。
たとえば明日、桜の枝に小さな新芽がついているのを見たら、
御名を呼んで、こう尋ねてみたらどうだろう。
「もしかして、神様、私に満開の桜を見せるために今から準備してくださっているのですか?」
きっと、神様との関係は親密になっていくと思う。
神様のさりげない愛に感動があふれ、賛美せずにいられない喜びに包まれるのではないか。
「もしかして、〜〜だったのは、主よ、あなたの愛による計らいですか?」
そんなふうに神様に近づくチャンスは私たちの生活の中に山ほどあるに違いない。
気づいた分だけ、きっと、幸せがふくらむ。
あらゆるものを通して惜しみなく愛を注いでおられる主、
栄光の御名が賛美されますように!
【天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。】マタイの福音書5章