老いの重荷、加齢に伴う恵み
同年代の女性たちでおしゃべりすると、物忘れネタで盛り上がるようになった。
「あるある〜!」
「わかる、わかる〜!」
それぞれが自分のエピソードを持っていて、次々に披露して笑い合う。
自分だけじゃないんだ...とちょっとホッとしたりもする。
だけど、それぞれ自虐ネタで笑ってはいても、まだ半分は受け入れきれない気持ちがあるのだと思う。
そんな自分が情けない、これからが心配、自分のしたことがショックで落ち込む、余計な時間がかかって予定が狂う、イライラするしなんだか焦る...。
誰かに何か言われようものなら傷ついてしまう...。
「私もそうだよ〜」と笑って慰め合っても、やっぱり心の底では悲しんでいる。
あ〜、嫌だなぁ〜と最後はため息まじりになる。
この世に生まれた瞬間から、私たちはみな等しく年をとっていく。
成長と呼べる時期を過ぎると、加齢とか老いとかの言葉で表現される段階に来る。
人生のピークをどこと考えるかは人それぞれだろう。
しかし、老いも死も、避けられる人はいない。
そんなことは当然と思いながらも、ある年齢までは自分とは関係ない感覚で生きているのではないか。
私の場合は40歳を過ぎた頃、まだ世間では働き盛りと言われる年代だと思うけれども、「もう若くない」という実感を強くした。
「このまま世代交代が来て、やがて表舞台から消えていく存在だ」という現実を考えることが続いて空しさに襲われた。
まだまだ現役、私はこれからだ!
...と意欲を燃やすことができればいいのに、実際は元気なアラフォーだというのに、不自由になった老人のように気持ちがしぼんだのを思い出す。
そんな頃に一つの詩に出会い、心が変えられていくキッカケとなった。
それ以来、折々に思い出して味わう。
衰えから目をそらせる何かに没頭するのでも、老いを避けるべきものと見るのでもなく、人生後半に備えられた神様の恵みと共に自分の現実と向き合っていくため。
自分がどこに向かって生きているのか...ゴールを確認し、避ける事のできない悲しみがあっても希望と平安をもって歩むことを教えられるからだ。
『最上のわざ』 (ヘルマンホイヴェルズ作)
この世で最上のわざは何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順に平静に己の十字架を担う
若者が元気いっぱいで神の道を進むのを見ても妬まず
人のために働くよりも
謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人の為に役立たずとも
親切で柔和であること
老いの重荷は神の賜物
古びた心に、これで最後の磨きをかける
まことのふる里に行くために
(後略)
何かが「できる」ことは嬉しいことだ。
誰かの役に立つことができれば、なおありがたい。
だけど、そもそも、私たちは自分の力で生きているわけではない。
心臓の鼓動一つ一つが、神の恵みによって支えられている。
できないことが増えていくと確かに悲しいし不便だけど、そもそも全部助けられていたことを知り、主の恵みにゆだねる姿勢で謙遜にされていくなら、それは「最後の磨き」なのだろう。
できるだけ元気で年を重ねたいと思う。
でも、若い頃に戻りたいとは全く思わない。
何かができることよりも、人に評価されることよりも、ずっと喜ばしいことがある。
こんな自分がイエス・キリストのものとされていること。
自分の名が、天にあるいのちの書に記されていること。
イエス・キリストの犠牲と引き換えに永遠のいのちが与えられていて、まことのふる里でわが主にお会いする日が約束されていること。
この喜びは、生涯を通して決して消えることはなく、むしろ年をとっていくにつれて益々大きくなり深まっていくはずだ...。
【私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。】第二コリント4章