何のために存在しているのか
スピードスケート女子パシュートが金メダルに輝いた。
オリンピックのアスリートたちがインタビューで繰り返し語る「チーム」という言葉。
そこにある信頼関係や互いを認めて感謝している様子、甘えを捨てて高め合うために働きかけ懸命に努力してきたであろう姿に感動する。
個人種目であろうと団体戦であろうと、世界で戦うレベルまで極めてきたアスリートたちだからこそ、自分一人の実力だけでやれていると思っている人などいないのではないか。
いつからだろう...。
「チーム」という言葉を聞くと、私は胸が熱くなる。
私にとっては、子どもの頃から、仲間と呼べる存在は必要不可欠なものだった。
私は友達に恵まれて育った。
だからか、
「仲間がいない」と感じる状態に置かれると、
あっさりガタガタになるもろさもある。
今の私が「チーム」という言葉から真っ先に考えるのは「教会」だ。
キリストにある共同体。
同じミッションに召され、同じ目標を与えられ、キリストにある勝利のために、永遠の栄冠を受けるために力を合わせて働き、闘い、神様の素晴らしさを表して愛に生きるように集められたチーム。
私たちの主は、一人一人を導きながらもチームとして指揮しておられる。
私たちに与えられている召しは、個人レベルのものではない。
チームの全員が個々の特徴を生かし、互いに信頼し、助け合い、喜びも悲しみも分け合い、困難な時もチームであり続け、互いの成長のために励まし合いながらしっかり連携してベストを追求しなければ成し得ない。
個々の力が優れていてもチーム力がなければ、成果にはつながらない。
私自身は、ポイントゲッターではないタイプ。
所属していた部活でも万年補欠選手だった。
秀でた能力など何一つ持ち合わせていないと今でも思う。
だけど、不思議なものだ。
40代も終わりに近づいた最近になって、自分自身を再認識したことがある。
私には「チームであること」への特別な情熱が授けられているようだ。
そうなるような経験をも神様が備えてきてくださったと、今は思える。
私がまだ独身だった頃に、卒業後も親しくしていた恩師が言ってくれた言葉を思い出した。
「あなたは、のりのような人よ。あなたが入ると、人と人がくっついて仲間になる。」
その時はピンとこなかったし、むしろ「糊」なんて冴えない印象だった。
だけど、今は、なんともありがたく、恐れ多い気持ちだ。
糊は、それ単体では何の意味もなく、機能は全く発揮できない。
キリスト共同体のために、私は存在している。
教会のために、この恵みの賜物が用いられますように...。
一人一人が、神によって創造された自分自身を正しく発見すること。
あの人ようでなくていい、あなたはあなた自身として機能していくことが一番大事。
そのことは力強い教会が建て上げられていくために不可欠なのではないだろうか。
主であるキリストが、私たち一人一人を召し集めてくださったのだから...。
『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』エペソ4:16