希望を伝えるために
私には希望があります。
その希望は、年々大きく確かなものとなっています。
その希望は、状況に左右されない喜びとなって私を支えています。
その希望が、私の心を変え、行動を変え、状況さえも逆に変化させています。
私の希望は、ただただイエス・キリストにある希望です。
だいぶ前、パートをしていたとき、同僚として親しくなった女性から色々と相談を受けるようになりました。
私は、聖書のことばとイエス・キリストという神の存在のゆえに、どのように心が変えられ、考え方や物事の見方が修正され、人間関係や夫婦関係が良くなり、職場でのあり方にも知恵を与えられていることなど、自分自身のエピソードを混ぜながら答えていました。
彼女はいつも興味深く聞いてくれていましたが、ある時、このようにお願いされました。
「あなたの体験していることは素晴らしいと思うのだけど、全部、クリスチャンじゃないと始まらないことばかりですよね?
もっと一般的な、信仰ではないポイントであなたの意見とかアドバイスを聞かせてほしいんです。そうでないと、私には、どれも手に入らないことなので...。」
いま振り返ると、当時の私の伝え方には多いに問題があったと思います。
彼女のその言葉を上手に受けて、彼女の方向転換を助ける答え方もあったはずと悔やまれます。
だけど私は、彼女の思いがけない言葉に考え込んでしまいました。
私の伝えることは彼女にとって現実的ではなく、結局役に立たないということか...と、なんだか落ち込んでしまったことを覚えています。
私には好意を持っていて考えを聞きたい、だけど、神様とか信仰は抜きで一般的に参考になる部分を話してほしい...。
その問いかけを受けて、私が逆に気づかされたことは、
神様も信仰も聖書も抜きで、なんとなく相手が励まされそうなことを話そうとしても、言葉が出てこないということでした。
それどころか、イエス・キリストを抜きにしたら私には希望が見えてこないことが、よりはっきりしました。
聖書を知らず、イエス・キリストなしに生きていた昔の私は、失望との闘いで、確かな答えもなく、いつも揺れ動き、もがいていたのです。
私がパートを辞めてからもしばらく連絡を取り合っていましたが、彼女もそれから結婚して遠くへ引っ越してしまって、いまはどうしているのかわかりません。
クリスチャンでない方にわかりやすく、自分に関係あることとして理解できるように、もっと思慮深いアプローチをするためには、どんな伝え方があるのか...。
いまだに私は自分自身の足りなさ、大きな課題を感じます。
下手でも、失敗しながらでも、少しずつでも、
やっぱり練習していくことが大切だと思わされています。
このブログを読んでくださる方が、もしクリスチャンでないなら、何が伝わっているのだろう。
ブログの読者が増やされるにつれ、私の意図とは違う色んな反応があることに直面した昨年でもありました。
私の伝えたい思いは、イエス・キリストに近づいてほしいということにすべてつながります。
それは、聖書の学びを通して始まり深まるということを信じています。
私を信頼して自分のことを話してくれる関係が与えられて、
その相手と共に過ごすことができるなら、
「自分に本当に必要なのは罪性の解決であり、その答えはイエス・キリストなのだ」
と気づいて求めたくなるような、影響力ある問いかけをする者に成長していきたい。
今の自分を見るとき、ハードルが高すぎて気落ちしそうになります。
しかし、自分自身の変化や人格的成長という点でも、イエス・キリストのゆえに、聖書の約束があるからこそ、私は希望を持ち続けることができますから、主に拠り頼んで感謝します!
『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』ヤコブの手紙1:5