妻であること
朝起きて一番に考えること、それがその人の「仕事」だ---、と伊集院静氏の著書で読んだことがある。
仕事について、収入源とか職業とか、あるいは多くの時間を費やして従事していること、というような定義ではなく、寝ても覚めてもまっさきに考える、つまり思考の中心にあるものという視点が印象的だった。
あなたは、朝目覚めて一番に、どんなことを考えていますか?
そこから考えると、あなたの現在の「仕事」は何だと言えそうですか?
その「仕事」は、あなたの人生においてどのくらいの期間を占めるものでしょう?
その「仕事」は、あなたが望むものですか?
その本を読んでから、自分が朝一番に考えたことを意識的にチェックするようになったのだけれども、自分でも驚きをもって再認識したことは、私の頭にまっさきに登場するのはたいてい主なる神様。
目覚めのまどろみの中で既に主を思っている。
悲しいときは悲しみの訴えで目覚め、調子がいい時は感謝と賛美で起きる。
いつからなのだろう。とにかく、私の思考は神様抜きにもはや何も始まらなくなっているらしい。
それからまず考えることは朝食のこと。
夫にできるだけバランスのいいご飯を作って、夫を気持ちよく送り出すことが最初の仕事だ。何も豪華なフルコースを用意するわけではないし、自慢できるような料理の腕前でもない。ごく普通の日本の朝食。
多くの女性たちが当然のようにやっていることだと思う。
しかし、それすらも面倒くさいと感じ、どうして私ばかりがやらなければならないのかと不満になり、やる気が出なくてぐずぐずと布団にもぐっていた時期があった。
そんな私が聖書を学ぶようになり、妻は夫の助け手であると聖書から理解して、神様から私に与えられた最重要ミッションとして「良き妻であろうとすること」をはっきりと目指すようになった。
夫婦について聖書が教え語っていることは実に多い。
聖書に出会わなければ、結婚は恋愛の延長にあるゴールのようなもので、目的も結婚生活の道筋もわからず、勝手な理想を描きはしても夫婦というものを真剣に考え、夫婦であることに希望を持ちつつ忍耐強く取り組むことなどなかっただろう...。
私のいちばんの「仕事」は「妻業」だと常々考えている。
妻業は、「夫が」「助けられている」と感じるように助け、敬い愛することだと私は理解している。料理を始めとする家事も妻業の一部と見ている。
夫のためにと良いことをしているつもりでもツボを外していて、喜んでくれないことで不機嫌になって本末転倒...など自分本位の失敗も経験しながら、夫を愛することを学ばせられてきたと思う。
女性とは全く違う男性を理解すること、自分の夫(性格や状態)を認識すること、愛する心をもってふさわしく仕えるために自分自身を整えること...いまだに練習中だ。
立派に聞こえたら、それは違う...。
身内との親しい付き合いもままならない私であり、子育てに追われることもない生活で、せめて同じ屋根の下で暮らすたった一人の夫を生涯愛すること、その一つだけでも精一杯やっていこうとしているに過ぎない。
先日「プロフェッショナルな妻たち」というテレビ番組があった。
アニマル浜口の妻など、有名人の妻が登場する。自分の夫が人生の危機を乗り越えるためにどのように助けたか、夫の性格を理解し適切に支えた妻の技のようなものが紹介されていて興味深かった。
聖書にも「プロ妻」の代表のような女性たちが記録されている。
ノアの箱舟で有名なノアの妻。アブラハムの妻サラがすぐ思い浮かぶ。どちらも、夫への従順さが特徴的。
従順...。
それは私に欠落していた性質であり、私自身がかつて理想としていた妻のあり方とも大きく違う、主体性のない、男尊女卑を連想させる“負け”のような響きであった。
しかし創造主なる神様は、男性も女性も互いを必要とし、補い合う存在としてデザインされ、男性も女性も等しく価値あるかけがえのない存在としながら秩序を定めた。
聖書が教える生き方は、神様のデザインした最高の姿を目指すことだと思う。
私は、結婚した女性は専業主婦であるべきとか、料理は女がするべきだとか主張するつもりは全くない。
私の尊敬する三浦綾子さんは多忙な作家であり、病気勝ちなこともあってあまり家事ができず、夫の光世さんが妻の仕事を手伝っていたのは有名な話だ。
にもかかわらず、彼女の姿勢はまさに「聖書的な妻」の素晴らしいモデルだと私は思っている。
結婚に導かれた女性なら、一人の夫の妻として聖書的にプロ妻化することに、ほんとうの自由、ほんとうの幸せを知る秘訣がきっとある。
いまの私はそう信じている。
その信仰によって思考が変えられ、生活も方向づけられ、従順さを知る者に変えられつつある。
私を変え続けてくださる恵みの主、イエス・キリストがほめたたえられますように。
見えない贈り物
いつからか、外出中にふと目に留った人や家などのために、心の中で祈ることが増えてきた。
もちろん、見ず知らずの人たちだ。
だからこそ、「祈りなさい」と私の視界に入れたのは神様なのではないか...と思わずにいられない。
神様の祝福がありますように...
生きにくい時代にあって、希望や喜びがありますように...
悲しんでいる人なら、慰めと安らぎがありますように...
病気の人なら、励ましと癒しがありますように...
いのちの糧である聖書に近づけられますように...
イエス・キリストとの出会いが与えられますように...
永遠につながる生き甲斐を得る人生に導かれますように...
心に思い浮かぶまま、祈る。
一期一会という言葉があるが、そのような祈りは出会いにも至っていない。
しかし、私にとっては特別な出会いのように思われてくる。
導かれた祈りは空しく終わるものでなく、この人の人生にきっと実るはずだと確信が深まるのだから、不思議な気持ちだ。
祈りの結果を私が見ることはないかもしれない。
私自身、その人の顔も祈ったことも忘れるだろう。
しかし、一度ささげられた祈りは「なかったこと」にはならない。
真実な神様が受領した限り、永遠を治める神様は忘れることなく絶妙に全うしてくださる、と私は信じている。
私が初めて聖書を手にしたのは18歳の時だった。
ミッションスクールで礼拝も好んで出席したが、イエス・キリストを求めるには至らなかった。クリスチャンの素晴らしい先生にも出会っていたのに、クリスチャンになりたいとは思いもしなかった。
ところが、それから約10年の時を経て、私は本気で救いを求めるようになり、聖書を開き、イエス・キリストを信じたのだ。
自分自身を振り返って、私のために誰かが祈ってくれただろうと思う。
見ず知らずの誰がが、もっと昔、祈ってくれたのかもしれない、などと最近しみじみと感謝に思う。
天国に行ったら、「あなたのおかげだったのですね!」と初めてわかって、改めて出会いを喜ぶこともたくさんあるだろうと想像するだけで胸が熱くなる。
祈りは見えない。
誰かのための祈りは、お礼を前提としない心からの贈り物、と言っていいかもしれない。
イエス・キリストこそ、いまこの瞬間も絶え間なく、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっているお方だ。
その様子を一部でもドキュメンタリー映画のように観ることができたなら、私たちはその姿に衝撃すら受け、言葉も失い、ひれ伏して感謝せずにはいられないのではないか...。
私のように自分のことしか頭にないような者が、イエス様の愛の、ほんのカケラでも注がれて、導かれるままに誰かのために祈らせていただけるなら、私の人生に意味を与える幸いなことだ...と思うこの頃です。
このブログを読んでくださっているあなたにも、神さま経由で恵みの贈り物が届きますように!
【しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。】詩73:28
もっと祈らなければならない?
もっとたくさん「祈らなければならない」と、気持ちが追い立てられることがあるだろうか。
そういう気持ちは、正しい考えのようであっても要注意かもしれない。
「自分の祈りが足りない。だからうまくいかないんだ。もっと祈るべきなのに私はできていない。もっと祈らないと神様から祝福されない。」
そんなふうに恐れや不安にとらわれているなら、解決は「もっと祈ること」よりも福音を再確認することだろうと思う。
私自身、この落とし穴にやられやすいと自戒していることだ。
健全な福音信仰から生まれてくるのは、神との親密さを慕い求める心ではないか。
祈らずにいられない。
もっと祈りたい。
そのような心は、聖書を学ぶことなしには育まれない。
救いの恵みを味わい、聖書のメッセージを正しく理解し、イエス・キリストがどのようなお方で、どのように自分と関わってくださる方なのか、神の約束が何なのか、そのようなことを学ぶほどに祈りは命を得ていくと思う。
祈りは、クリスチャンの義務ではなく最高の特権であり、呼吸のように自然で不可欠なものだと体験していくだろう。
先日、『祈りのちから(War Room)』という映画を観た。
教会に通ってはいるがプライベードでは形式的な食前の祈りくらいしかしない家族が登場する。夫婦関係は冷えていて家庭も壊れかかっている。ところが、ある出会いにより妻が本気で神様に助けを求めて祈り始めることから、家族が奇跡的に回復していくというストーリー。
いったい何が私たちの幸福を壊すのか...。
ほんとうの敵はだれで、勝利の鍵はどこにあるのか...。
真理が豊かに盛り込まれ、ユーモアもあり、ストレートに訴えてくる素晴らしい作品。
クリスチャンであってもなくても、ぜひお勧めしたい。
祈りには現実的な力がある、と私は信じている。
しかし、それは自分の思い通りに事を運ぶための手段ではない。
祈りは、願いを叶えるための「おまじない」でもないし、「魔法の呪文」でもない。
むしろ、神様に主権をお返しし、神様に信頼して従う行為だ。
熱心に祈ったら絶対その通りになる...なんて、私は決して言わない。
しかし、はっきり言えることがある。
あなたが本気でイエス・キリストを求めて祈り始めるなら、
そして聖書を学びながら祈り続けるなら、
確実に「あなた」が変えられていく。
神様との親密な関係の中で、あなたは慰められ、安らぎ、強められるだろう。
祈りの力は、まず祈っている本人に実現し、そして必ず周りにも働く。
祈りの答えを見るのは、すぐかもしれないし、ずっと先かもしれない。
願ったこととは違う展開を見ることもあるだろう。
しかし、あなたの心と生活は、祈り始めた時から祝福へと既に方向転換している。
祈りには力がある。
気休めではない、人生を変える大きな力が...。
そのような祈りの習慣には、共に祈りながら助けてくれる人がなくてはならないように思う。
あなたに、真実な祈りの友が与えられますように。
あなたが、だれかの祈りの友となりますように。
私自身もますます祈りに生き、その力強さや豊かさを知り、だれかの祈りを助けるような信仰生活へとさらに導かれますように...。
【鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。】箴言27:17
弱り果てるな
先日「水切りトマト」なるものを初めて見つけた。
水を極力与えずにストレスをかけて育てることで、旨味などが凝縮された甘いトマトが実るそうだ。
私が購入したものも、真っ赤に熟してみずみずしく、甘くて美味しかった。
聖書には、神様は人を成熟させるために苦しみを用いることが多く書かれている。
神様に信頼して耐え忍ぶように、実りの時を、ゴールの時を待ち望むように教えられている。
その忍耐や労苦が無駄になることは決してないと、みことばは約束している。
神様は、信仰をもって生きる者に「ストレスのない人生」を約束してはいない。
しかし、キリストのいのちを生きるために、必要なものは全て与えられると約束している。
また、クリスチャンが信仰に生きると、その人生には苦しみがあると聖書ははっきり告げている。
しかし、その苦しみは産みの苦しみで、とてつもなく大きな喜びに取って代わる日が来るとも宣言している。
苦しみにも色々あるだろう...。
あえて水切りトマトに重ねるなら、欠乏する前に常に水と肥料が与えられて最適な環境で充足されるどころか、必要な水もなかなか与えられず、じわじわと力が奪われ、干涸びて枯れそうになる時期が私たちにもあるかもしれない。
助けを求めて祈っても、待っても待っても解決が来ない...。
そういう時を既に通られた方もおられるかもしれない。
しかし、私はみことばによって知っている。
神様の恵みはいつも私に十分なのだ。
恵みが不足している時など、一瞬たりともないはずだ。
たとえ私たちの感情が欠乏を訴えたとしても...。
神様は、ご自身の栄光となる最高の実をならせるために、絶妙なさじ加減で絶えず世話をし、時を見極めて厳しく鍛える。放置して枯らすことなど、あるはずがない。
与えないことにも目的があり、より良くするための深い恵みだと、私は信じる。
【主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する子を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。...すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。】ヘブル人への手紙12章
神のなさることは、人の目にはわからない。
だから、私たちの選択肢は2つ。
現実に一喜一憂するのか、どんな時も神のことばに信頼するのか...。
神様は、私に、美味しい水切りトマトを手に取らせ、食べさせてくださった。
水切りトマトって、本当に甘い...。
この体験に霊的なメッセージが重なる。
「渇いても弱り果てるな。わたしを信頼して失望してはならない。」---と、神様の愛のことばが温かく胸に迫ってくるようだ。
私は、みことばに信頼し、みことばを切に慕い求める...。
心が戦場になる?!
ここ数日、福音書をはじめから読んでいる。
私がどうか、周りはどうか、何をどうすべきかなどの答えを意識せず、イエス様がどういう方かとじっと目で追い、主イエス様の内に身を浸すような時間を求めて。
「あなたにとって、キリストであるわたしの価値は、どれくらいか?」
...という問いも、先週に引き続き、私の中に留まり続けている。
正直、なにか重苦しく、出口を探しているような感覚が続いている。
自分に何が起きているのか、わからない。
何か理由を見つけたくなる。
確かに、いくつか影響している事実はあるかもしれない。
しかし、いずれにしても、それらはすべて神様が用いる道具に過ぎない。
私から罪の性質や不純物が除かれ、神とより深く出会い、練られた品性や満ち足りる心が形成され、神様の栄光が表されるために、聖霊さまが私の内で働き、主が戦ってくださっているのだと、私は考える。
自分の内側が戦場になっているような時に、どうしたらいいか。
見えない戦いを終わらせようと自分で作戦を考え、決着をつけようとがんばるのか。
それは、自分自身に切り掛かるようなもので、より衰弱し、敗北感だけが増すことを私は経験から学んだ。
こんな時は、私の内に住んで私の聖化を仕事としてくださっている聖霊さまに信頼することだ。
どうなっているかわからなくても、事態が悪化していくようで苦しくても...。
私に与えられている約束、キリストの御霊である聖霊さまに信頼すること。
それが私にできる最善の選択だと、私は知っているし、そう信じている。
だから
心の中が波立ち、暗く沈んだり、苦痛や悲しみに飲み込まれそうになっても、
自己嫌悪や罪責感が攻めかかってきても、
私は、聖霊さまと真の敵との戦いとして意識する。
そうであるなら、問題や敵が何であろうとも、勝敗を心配する必要など全くない。
真面目だとよく言われる。完璧主義の傾向もまだ残っていると思う。
自分の性格の厄介さは承知しているつもりだ。
性格は性格として否定しなくてもいいと思うようになったけれども、
主にある自由から逸脱させるような真面目さは、主の前で「自分の義」を立てようとする過ちであり、つまり私は自らの罪の傾向によって苦しんでいるだけなのだと思う。
見えるところによらず、感じることによらず、
主に全面的に信頼し、
自分の義を放棄し、
他者と比較せず、
必ず成就していく神の御計画こそ最善と理解し、
キリストに依存するしかない何も持たない貧しい者として
恵みの福音に身を避けることをしっかり学ぶプロセスに
私は置かれているのではないか。
導いてくださる主に信頼していれば、出口はきっと来る。
まるで受刑者のような心にならないで、赦されている今を楽しむことを考えよう。
弱さにある時でも天国途上...。
【心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。】
マタイの福音書5章より
スタートライン
「初心忘れるべからず」
「原点に帰る」
誰もが知っている言葉であり、その重要性をなんらかの形で経験したこともきっとあるだろう。
先日、クリスチャン映画『復活』(ケヴィン・レイノルズ監督 ジョセフ・ファインズ主演)を観た。
座席5列ほどの小さな劇場で、観客は私を含め7−8名。
採算がとれないかもしれないのに仙台で上映されたこと、一人静まって鑑賞できたことに、私は神様の計らいを深く感謝した。
私には「原点に帰らされる」ような時間だったからだ。
創造主である神に背を向けて自らの罪のために不自由に生きるしかなく、どんな人生を歩もうとも死後の裁きから逃れることができない人間のために、裁き主である神が人となってこの地に降りて来られ、救い主として十字架で身代わりに裁きを受けて、神の完全な愛と義とを立てられた。
主は、救いの業を完了され、死に勝利し、復活して今も生きておられる。
イエス・キリストを信じるなら、人生も死も本質が変わり、神の永遠の裁きを恐れる必要もない。
このような神がおられる。
ご自身の言葉をことごとく成就される真実なお方がおられる。
尽きることのない赦しと惜しみない恵みをもって、導いてくださる救い主がおられる。
映画を観ながら、復活のイエスに出会った人々のあふれる喜びや満ち足りた確信の眼差し、その真実に衝撃を受け変わっていく姿が心に迫ってきた。
イエス様がまことの生ける神であり、主がどんなに素晴らしいお方であるか、その感動が私の心を突き上げた。
私は、主ご自身をただ慕い求め、主の麗しさに満ち足りて、主と共にある人生を単純に瑞々しく喜ぶことを忘れていたのではないか...。
いつか必ず主に直接お会いできる、主は私をはっきりと知っていてくださる。
私は、このような素晴らしい主と共に永遠に生きることができる。
そんな幸いをいただく資格は何もなかったのに、むしろ絶望的な失格者でしかなかったのに、ただ一方的な恵みによって、私は主の十字架によって罪を赦され、永遠に住まう世界が闇から光へと変えられた者なのだ。
私の希望は、復活の主、イエス・キリスト。
今週の礼拝メッセージでは、神のしもべとして神のミッションに仕える生き方が語られた。その歩みを妨げる恐れ、直面する苦しい現実が確かにあることも。
そして、厳粛に、このような問いかけで結ばれた。
「あなたにとって、福音の価値はどのくらいですか?」
嫌な思いをするくらい何でもない、と言えるほどの価値もないのか...。
疲れるとか、傷つくとか、誤解されたり恥ずかしい思いをするとか、摩擦が生じたり反発されたり避けられたりするとか、納得いかなくても理解に努め譲歩すること、失敗の痛みを負い、腹立たしくても赦す選択、孤独を味わうこと、自ら不自由に甘んじること、報われない空しさに耐えるとか...。
聖書の価値観で生きようとしているのに成果が見えなくて、悲しい、つらい、うまくいかない、という現実は確かにある。
笑いが止まらないような冒険とは違う、地味な葛藤の日々。
だから...?
それなら、もうやめるの?
気の向くまま嫌なことは避け、自分の罪をごまかし、保身に逃げるのか...。
苦しむほどにはキリストに従いたくないのか...。
イエス様に似た者に変えてくださるという神の約束を信じて、恵みに頼りながら祈り、日々チャレンジしていく歩みを、ここで投げ出すのか...。
神様のことばを聞き流し、主の前に顔を伏せて、自分を変えようとしないテキトー路線を走るのか...。
「あなたにとって、キリストであるわたしの価値は、どれくらいか?」
映画のエンドロールが流れ、真っ暗な劇場の中で、私はその問いかけを受けたような気がした。頭を垂れ、心に浮かぶこと一つ一つ、悔い改めの祈りをささげた。
福音の価値、キリストの素晴らしさ、救いの圧倒的な恵み。
それが私のスタートライン。
主よ。このスタートラインに、いつも私を立たせてください。
イエス様、私はあなたを愛します。
「思い通りにならない」と嘆きたくなる夜に
気落ちさせる出来事がある。
周りの人たちが期待通りでない。
家族が願い通りになってくれない。
職場、学校、教会、地域、環境が、望み通りでない。
何より、自分自身が、ちっとも思うようにならない。
何もかも良くならない。
いや、悪くなっていくばかりではないか、このままずっと...。
私たちの感情は自分自身を欺く、と聖書は指摘している。
その通りだ。
まるで自分から見える世界がすべてであり、自分が感じていることすべてが真実であるかのように現実を思い込み、その感情に支配されるとますます自分が見ているようにしか物事が見えなくなる。
これも聖書の示す「罪」の一面だと思う。
自分の状態の悪さだけがリアルに迫ってくると、嫌悪感や被害者意識の出番だ。
自分だけが苦しんでいるような気持ちに陥る。
甘えの心理に飲み込まれていく。
どこにも希望がないかのような絶望感が漂う。
誰の人生にも苦しい時があり、思い通りにならないことがたくさんある。
誰もが、耐えるしかない現実を抱えながら生きる者なのだろう。
自分だけじゃない。
あなただけじゃない。
それでも私は、言葉にならない気持ちを抱えながら呼べる名前を持っている。
「主よ。主よ。私の神様...」
と、すがることができる確かなお方を知っている。
なにも説明できなくていい、お名前を呼ぶだけで、主は私をわかってくださる。
なんという慰めだろう。
キリストである主のお名前を呼べることが、私の人生における最高の賜物、最大の力。
主のお名前を呼ぶ。
呼ぶ、呼ぶ、呼ぶ...。
そうしていると、少しずつ、何かが変わってくる。
しめつけられていた心が、ふっ...とほどけてくる。
神様の語りかけのように御言葉が思い浮かぶ。
何も思い通りにならない...そんなこと当たり前か。
だって私は神様じゃないんだから。
神様の思い通りになっている。
それを信頼すればいいことでした、そうですね、主よ...。
手応えがあろうと、なかろうと、なすべきことを淡々と行って、
一日一日を耐える力を与えてください。
私は、自分の感じることではなく、あなたの御言葉こそ真実だと信頼します。
私に忍び寄る欺きの束縛から、どうぞ守ってください。
私は永遠を思います。
地上においてはすべてが聖化につながり、天に召される時は栄化が実現し、すべてがはっきりとわかる日が来ると信じて待ち望みます。
あなたの御心が、この身に、この地になりますように...。
イザヤ書55章より
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
--主の御告げ--
天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、
必ず地を潤し、
それに物を生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者には種を与え、
食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、
むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望むことを成し遂げ、
わたしの言い送った事を成功させる。
まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、
安らかに導かれて行く。