「変われない人」の落とし穴は?
白鳥が隊列を組んで空を舞う姿が見えなくなったら、もう春だ。
今年もウグイスが「ホーホケキョ」の練習を始めている。
ホホ、ホゥ、ケッ、キョ、ケキョ...と、いかにも不器用な鳴き声が繰り返し聞こえる。
「この、ケキョって鳴く鳥、最近よく鳴いてるけど、なんだろうね~?」
結婚して初めて東京を離れた私が真顔で聞くと、
地元育ちの夫が笑いながら「ウグイスだよ。ホーホケキョと鳴くのは実は難しくて苦しい発声らしいんだけど、繰り返し練習してきれいに鳴けるようになるんだよ」と教えてくれた。ちょっと感動した...。
(生物学的には、メスを得るためのアピールとしてオスだけが競ってやることなのだとか。)
私にはこの宮城の地がとても肌に合っていると思う。
季節や自然を体感できる生活が大好きだ。
ところで、
ウグイスでも練習しなければ、なめらかなホーホケキョの美声を響かせることはできない。
しかし、ウグイスだから、練習すればホーホケキョと鳴くことができる。
カラスがいくら練習してもホーホケキョと鳴くことは決してないし、そもそも練習しようとしないだろう。
ホーホケキョと鳴かなくても、ウグイスはウグイスだけど、ホーホケキョと美しく鳴くとき、その鳥がウグイスであることが一番はっきりわかる。
そのときこそ、ウグイスは最もウグイスらしい...と言っていいのではないか。
なぜ、こんなにウグイスのことを書いているのかというと、私の中では、クリスチャンのクリスチャンらしさを考えることに重なるからだ。
【ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。】エペソ5章
【あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。】エペソ5章
聖書は、私たちがどういう者であるのかを教えている。
人間が本当に人間らしく生きることを教え、そのための正しい道を示し、ふさわしく成長するためにステップを導いている。
神の子とされたクリスチャンが、愛の神に育てられている神の子らしい生き方をするには、やはり「ふさわしくなろうとする」練習が必要なのだ。
だから、御言葉は「ふさわしくなろうとせよ」と様々な表現で命じている。
最初からうまくできないからといって、神の子でないわけではない。
しかし、新しい生き方を練習することがないなら、何年たっても、神の子らしさは見えてこないのではないか。
あなたの周りに尊敬できるクリスチャンがいるなら、その人はきっと聖書が教える生き方を学び続け、練習し続けてきた人だと思う。
神の恵みにあって「変われない者」などいない。
変われないのではなく、「自分が変われると思えない」ことに落とし穴があるのではないか。
自分がどのような者なのかを正しく知らないことが、ふさわしい実践練習を妨げているのかもしれない。
聖書の宣言、たとえば、神に愛されている、赦されている、新しくされたなどを、
本気で信じていないことが、
喜びと期待をもって地道な練習を続ける意欲を奪うこともあるだろう。
人間の赤ちゃんだって、つかまり立ちをして自由自在に歩くようになるまで、どれだけよろよろ転び、繰り返し練習しているかを思い出すなら明白だろう。
クリスチャンライフも同じではないか。
キリストの弟子らしく成長することも、そうに違いない。
救われた者なのだから、恵みによって救われた者らしく、
恵みの福音を生きるように、私はこれからも練習していく。
不格好なところも隠そうとしないで、失敗も恐れないで、練習中だと意識する。
弱さも愚かさも認めるし、停滞することもあるけど、あきらめずに練習していく。
私は変えられてきたし、もっともっと変えられていくと信じているから、練習する。
毎春、ウグイスの声に触れるたび、心新たに決意させられる私です。
【ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。】ピリピ1章