天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

生き方をトレーニングする

「敬虔」と聞いて、あなたは何を思うだろう。

 

特別に宗教熱心、修道院に入りそうな生真面目な信仰というのが一般的印象かもしれない。

ちなみに私は、敬虔という言葉が聖書に出てくる時、自己中心と反対方向にある「神様中心(の生き方)」という理解で読んでいる。

聖書が勧める敬虔を、神をうやまうことを示す宗教的活動であるとか、俗世を遠ざける聖人とか、あるいは誰をも敵にしないような善人をイメージしないでほしい。

 

「神様中心」とは、聖書に従って神を愛し、神が私たちを愛してくださったように人を愛そうとする具体的な生き方だ、と私は考えている。

基準は、人がどう思うかではなく、神様がどう思われるかであり、その答えを神のことばである聖書に求める生き方。

 

聖書を基準にした「正しい生き方」「神様に喜ばれる選択」が、一般的にも喜ばれ、肯定的に認められるとは限らない。

聖書に従って愛する選択をしたつもりでも嫌われることがある。

理解されず、不本意な悲しい反応に耐えなくてはいけないこともある。

リスクのある選択での失敗が予想外の痛手となることもある。

そういう時、つらくないと言えば嘘になる。

しかし、それでも私は、神に喜ばれる選択を鍛錬し続けたい。

 

敬虔という生き方は、単なる想像では的外れになるし、クリスチャンになれば自動的にわかるというものでもない。

 

前回、「敬虔のための鍛錬」というのはすべての人の一日に絶え間なく繰り返されるあらゆる選択において、神に喜ばれる選択を主体的に繰り返していくことだと紹介した。

生活全体が敬虔のための鍛錬になっていくという視点が、私にもたらし始めている充実感を書いたつもりだ。

 

私には筋トレのイメージが浮かぶ。

一回の主体的な選択はダンベルを一回持ち上げたこと。

ダンベルの重量は選択の難しさに例えられるかもしれない。

自分のコンディションや時と場合により難易度や負担感は異なるだろう。

決意をもってトレーニングを始めたとして、最初は軽いもので十分。

重いのが持ち上げられなくて当然だし、怪我や事故を避けるためにもふさわしい助言に耳を傾けながら、段階的なステップアップの見通しをもつ必要がある。

後が続かないような非現実的目標は持たない方がいい。

 

一日にある無数の選択がダンベルを持ち上げるチャンスだとすると、一回を軽んじることはできないが、とはいえ、その一回で全てが決まるわけでもない。

好調でも不調でも地道にコツコツと継続的に反復することで、少しずつ霊的筋肉のようなものが確実についていくイメージ。

 

もちろん、使わないでいれば、その霊的筋力はまた弱くなっていく。

つまり、神様に喜ばれる選択を放棄し続けるなら、信仰者らしい言葉を時々使ったとしても、敬虔な生き方の実体はほとんどなくなっていくということ。

しかし、なまった肉体も再び鍛えることが可能なように、敬虔も信仰の決意(悔い改め)によって何度でも鍛錬し直すこともできるから恵みだ。

 

 

「敬虔」とか「信仰」という漠然とした概念を、「成長させる」とか「磨く」とか「鍛錬する」いう、これまた漠然とした言い方で表現されるテーマについて筋トレに例えて具体的にとらえてみた。

 

どんなことでもそうだと思うが、何かの成功などある目的のために具体的に取り組むことをステップとして明確にすることは、目的達成と切り離せない重要事項だろう。

 

少し極端に例えて言うと、

宇宙飛行士を夢みている少年が、宇宙飛行士になるために自分がこれから具体的に何を身につけていく必要があるかを考えることがないままなら、宇宙の写真を毎日眺めていたとしても、彼が現実に宇宙飛行士になることは決してない。

 

同じように、「信仰が強くなりますように」とか「神様のために生きたい」と漠然と願っていても、それが何を意味していて、そのために何をしたらいいのか具体的に考えることもなく、具体的なチャレンジを何も実行もしないなら、その願いは「宇宙の写真」と変わらないのではないか。

 

 

鍛錬された敬虔なクリスチャンライフは、恵みにあふれた幸いに違いない

 

神に喜ばれる選択を主体的にしていくためには、何が神に喜ばれるのかを知っていることが前提となる。

すべては聖書を学び続けることを土台に、生活の中で意識的選択を重ねていく鍛錬抜きに近道などないと、私自身、再確認しているのだ。

そして聖霊は、神様に喜ばれることを成そうとする取り組みにこそ、豊かに働いておられるはずだ。

 

何をすべきかが具体的になる...それだけで目標に向けて一歩踏み出したということなのだから、課題だらけであり、苦労や失敗が避けられないとしても、喜びと希望が私の背中を押している。

 

 光の子どもらしく歩みなさい

 --光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです-- 

 そのためには、主に喜ばれることが何であるのかを見分けなさい

 エペソ5章

 

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マンネリな毎日がチャレンジングに!?

「私が今日一日、あなたに喜ばれる選択を一つでも多く重ねることができますように、神様どうぞ助けてください。」

 

私は、ごく最近になって、朝の祈りに必ずこの願いを添えるようになった。

意識しているのは「あなたに喜ばれる選択」だ。

 

キッカケは一冊の本。

『恵みに生きる訓練-聖性の追求を果たすため-』(ジェリー・ブリッジズ著)で、絶版のため入手困難なので教会図書から借りて読んだ。

私は、読みながら何度も祈らされ、感動し、悔い改めに導かれ、福音の圧倒的な恵みが力強く迫ってきて感謝に満たされた。

 

その福音の恵みに立ち帰り続けることを前提に、私たちはキリストを我が主として生きる者らしく成長していくために熱心に取り組むべきことが勧められている。

 

その取り組みの一つとして挙げられていたのが「正しい選択をする訓練」というもの。

 

新約聖書テモテへの手紙第1には「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(4:7)と書かれているが、この敬虔のためになる鍛錬というものが具体的には何を意味するのかが明確にされていたことが、私には新鮮な発見となった。

 

敬虔のための鍛錬...他にも様々な表現ができるだろう。

たとえば弟子訓練、霊的成長、実を結ぶ生き方、内なる人を強くする、御霊によって歩む、キリストに似た者になる...などなど、表現はどうであれ、聖書はクリスチャンになった者がさらにイエス・キリストに従う弟子となっていくように、意志を働かせて成熟を目指す生き方を教え、それを命じている。

 

もちろん、そうでありたいと思っているし、私なりに取り組んでいるつもりでもある。

 

しかし、その具体的方法として私が意識していたことは、

非常にタスク的というか、クリスチャン的習慣のイメージだったと思う。

 

たとえば、聖書を学ぶ、お祈りする、

聖書から教えられたことを自分に適用して実行する、

御言葉で考えて愛し合う人間関係に取り組む言葉や行動、

信仰書を読む、礼拝する、献金する...というような、

言ってみればトレーニングメニューのようないくつかを掲げて

それらを継続することがクリスチャンとしての成長に取り組んでいるという感覚。

 

そういう感覚に伴って、時間の使い方、お金の使い方において、また心の関心において、どのくらい多く神様のために取り分けるか...というような判断基準で敬虔を考える傾向も強いかもしれない。

もちろん、それらはクリスチャン生活において現実的に信仰が問われる重要な領域に違いないだろうけど...。

 

この本で「敬虔のための鍛錬」というのは、すべての人の一日に絶え間なく繰り返されるあらゆる選択において、神に喜ばれる選択を主体的に繰り返していくことだと教えられた。

特別に設定された訓練メニューのようなものではなく、祈る時間をとることも、聖書を開くことも、その一日の中にある選択の一つということだ。

 

例えば、朝ぎりぎりまで寝ているのか、余裕をもって起きるのかという選択にはじまり、布団から出て家族に「おはよう」と気持ちよく挨拶するのか、ぶすっとした顔で無言のまま自分の支度をするのかというようなことも、敬虔の鍛錬となる選択の一つと考えることができる。

 

仕事だろうと育児だろうと勉強だろうと、否応無く「しなければならないこと」「拘束される時間」が誰にでもあるだろう。

選択の余地がないと感じるかもしれない。

しかし、どういう態度でそれをするのか、どんな気持ちで臨むのか、という選択が訓練となり得る。

 

朝起きてから寝るまでにある無数の選択を、成り行き任せ、気分任せではなく、意識的に神様が喜ぶ方向(聖書が教えている正しいあり方)を考えて選択するなら、

まさに誰のどんな一日であっても敬虔の鍛錬のチャンスに事欠かない

つまり、一日丸ごとが、生活全体が、敬虔のための鍛錬になっていくという視点に、私はハッとさせられた。

 

 

ここで本から一部抜粋してご紹介します。

*************

忘れないでほしい。日々私たちは、一つの方向で、あるいは他の方向で、自分を鍛錬している。日々私たちは、次のどちらかの方向で自分を鍛錬しているのだ。

 

嘘をつく  or  真実を語る

利己的である  or  非利己的である

怒る  or  赦す

みだらである  or  純潔である

短気である  or  忍耐強い

貪欲である  or  気前がよい

高慢である  or  謙遜である

物欲的である  or  簡素である

(略)

ところで、私たちに正しい選択をさせてくださる聖霊の力が、何としても必要である。

それで、日々神に向かって、その日の助けを叫び求めよ

***********

 

私は、上のリストを読みながら、

怠惰 or 勤勉

感情的(気分的) or 意志的

愛さない or 愛する

...というような相対する方向も思い浮かんだ。

他にもいろいろなパターンが考えられるだろう。

 

スーパーで買物カゴに何を入れるか入れないか、そんな些細なことですら選択意識を持つなら霊的訓練だ。

余計な菓子パンがカゴから一つ減るかもしれない。

 

夫に用事を頼まれた時の反応に、選択意識による変化が生じるかもしれない。

 

敬虔の鍛錬は意識的選択...という視点を得て、

今日という平凡な一日が新鮮でチャレンジングに見えてきている。

 

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思い描いた人生と違う現実をどう受け入れますか?

先日の出来事。

信号のない横断歩道に一人じっと立つ女の子がいたので、私は車を停止して手真似で「どうぞ」と促した。

小学校2、3年生と見える小柄なその子は、ペコリと頭を下げて横断歩道を小走りで行った。赤いランドセルが背中で揺れて、なんだか微笑ましいなぁ、と思いながら車を発進させようとした瞬間だった。少女は反対の歩道に入るなり、くるりと振り返り、その場で私に向かって丁寧におじきをしたのだ。

その意外なまでの礼儀正しさに私は感動した。

なんて愛らしい子なんだろう!と、知り合いのような笑顔で手を挙げて思わず応じてしまった。すがすがしい気持ちになり、どんな家庭のお子さんなのかなと運転中もずっと考えていた。いい意味で親の顔が見たいというか...。

そして数日を経た今も、どこの誰とも知らないあの子が心に残っている。

 

 

私は子どもを授からなかった。

子ども大好きというタイプではないけれども、私に子どもがいたらどうだったんだろう、と考えないわけではない。

 

信仰を与えられ、聖書を学び、聖書が教えるような家庭形成の尊さを知るほどに、以前は想像もできなかった秩序ある愛の家族観を持つようになった。

私の教会はクリスチャンファミリーが多くて、子供たちも元気に集っている。

小さい頃から家族そろって教会に集い、聖書に親しみ、本当に特別に恵まれた子どもたちだなぁ、といつも思う。

 

私は母性に乏しくて家族愛も歪んでいると自認していたせいか、子どもと接することはどうしていいかわからない戸惑いが強くて、漠然と避けてきたような気がする。

子どもというのは、私の住む世界から遠くにいる存在。

そんなイメージと共にほとんど関心を向けなかったと言っていい。

 

年齢的にいっても、もう私が子育てをする可能性はほとんどないだろうし、それでいいと思っている。

子どもがいることの素晴らしさも大いに想像できるけど、子育ての大変さや責任を考えたら、やっぱり私には無理無理と恐れる思いが先行する。

子育て奮闘中の親たちには頭が下がるばかりだ。

 

とはいえ、40代後半にもなってようやく、子どもという存在が愛おしく目に留まるようになっているのも事実で、私自身、そんな自分が不思議ですらある。

これも、私の人格における神様の癒しの一面なのだろう...。

 

父なる神様を知るようになり、年齢は大人だけど今度は「神の子」として父なる神の語りかけを受けながら改めて養育される日々を体験しながら、変わらない愛と揺るがない恵みの中で守られて安心して生活できる幸いへと導かれてきたことが影響しているのではないか...。

アダルトチルドレンという言葉がある時期は頻繁に聞かれた。

それと同じなのかはわからないけれども、

子としての私の心が満たされた結果、大人らしい健全な眼差しを持つようにされつつあるのかもしれない。

 

 

あの赤いランドセルの少女みたいな子がウチにいたらなぁ...なんて今さら自分に都合のいい想像をして、ちょっぴり寂しくうらやましい感情が私の中に芽生えることも正直ある。

 

だけど、そういう無いものねだりの感情がいつまでも私を苦しめることはもうない

 

神様のご計画が私の人生に実現していて、私が思い描いた人生と神のご計画が違ったとしても、神様が備えてくださるすべてのものは私への愛と祝福で満ちていることを私は信じて疑わない。

私の救いのために来てくださったキリストの十字架によって示された神の愛を知るようにされてから、神の愛に疑いの余地はないからだ。

 

神様がご計画をもって私を創造し、私のために神様が最善を考えて備えてくださった恵みの人生なのだ...と信じるようになって、私は自分の過去に対しても、現在に対しても、将来に対しても見方は全く変えられた

だから、否定的な感情に支配されることから守られるし、感謝をもって現状を受け入れ、何があっても何がなくても自分に与えられた人生を希望をもって生きることができる

 

確かに私は、天国途上を歩ませていただいているではないか...。

 

主よ、あなたの恵みは私に十分です。

もったいないほどの恵みです。

 

私は神と共に歩める日々の幸いを感謝し、

すべてが完成する天の御国を待ち望み、

私の主キリストを仰いで賛美します!

 

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悩み多き日の処方箋

私たちは、自分が考えることを意識的に取捨選択する必要がある。

思考を健全な方向で管理する責任は自分自身にある。

 

聖書のピリピの手紙をここ数日ディボーションしながら、充実したクリスチャンライフと習慣的な思考の関係を黙想していた。

 

くよくよしないで前向きに考えること、気持ちを切り替える技術などは、メンタルヘルスのポイントとして一般的にも語られることだが、聖書ではこのように書かれている。

 

【何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。】ピリピ4章

 

私たちの心と思いは、守られる必要を抱えていると言えるのではないか。

私たちは、自分を取り囲む「状況」を快適に守ってほしいと期待しているかもしれない。そうなれば思い悩むことからも解放される、と。

しかし、神が約束しているのは、どんな状況においても、思い煩わずにいられないような精神状態に追い込まれたとしても、私たちの「心と思い」を守ってくださる、ということだ。

 

守りを受け取る方法として聖書が教えていることは、

心配事を洗いざらい神様に打ち明けて、不平不満ではなく感謝する心を持ちながら神様に頼ることだ。

 

さぁ、神様に心を向けよう。

あぁ嫌だ、困った、ひどい、つらい、もう無理...などとため息まじりにつぶやき、我が身を嘆きながらぼんやり考えるのをやめて、主のお名前を呼んで一歩を踏み出そう。

 

そうすれば、たとえ状況は同じでも落ち着きを保つことができる。

神の平安という特別な安心感がキリストの内にいる私たちを支える。

気休めではない、逃避でもない、一時的なハイテンションでもない、まさに、人知を越えた神の守りが心と思いに働くのを体験するだろう。

 

続きにはこう書かれている。

 【すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。】ピリピ4章

  

このみことばを読んで自分自身を振り返ると、

なんとも、反対のことを考えていることが多い...。

疑わしい事柄や不確かな想定であれこれ吟味している。

腹立たしい事や嘆かわしい事に注目する。

悲しい現実、人の醜い面に心をとらわれやすい。

悪いニュース、負担の大きい課題、向けられた批判が頭から離れない。

 

 

あなたの思考は、何に留まりやすいですか...。

心は、どんな感情で満ちていますか...。

自分の内側を聖書に照らして考えてみませんか...。

 

意識的な点検で早期発見が回復の鍵です。

(ガン検診の宣伝文句みたいですね)

 

 

思考は取捨選択できることを忘れないように、私は聖書のことばを覚えます。

キリストにあって守られることを私は切に願います。 

神様は約束通り必ず守ってくださいます。

しかし、私たち側にも応答の責任があると思うのです。

何を考え、何を考えないようにするのか、

聖書の真理を考え、神様を求める選択をすること。

 

神様の恵みによって、どんな状況においても思考の管理を主体的にすることができる、と私は信じます。

だから私は、キリストを中心に思考を整理する習慣づくりに取り組み続けます。

 

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「変われない人」の落とし穴は?

白鳥が隊列を組んで空を舞う姿が見えなくなったら、もう春だ。

今年もウグイスが「ホーホケキョ」の練習を始めている。

ホホ、ホゥ、ケッ、キョ、ケキョ...と、いかにも不器用な鳴き声が繰り返し聞こえる。

 

 

「この、ケキョって鳴く鳥、最近よく鳴いてるけど、なんだろうね~?」

結婚して初めて東京を離れた私が真顔で聞くと、

地元育ちの夫が笑いながら「ウグイスだよ。ホーホケキョと鳴くのは実は難しくて苦しい発声らしいんだけど、繰り返し練習してきれいに鳴けるようになるんだよ」と教えてくれた。ちょっと感動した...。

(生物学的には、メスを得るためのアピールとしてオスだけが競ってやることなのだとか。)

 

私にはこの宮城の地がとても肌に合っていると思う。

季節や自然を体感できる生活が大好きだ。

 

 

ところで、

ウグイスでも練習しなければ、なめらかなホーホケキョの美声を響かせることはできない。

しかし、ウグイスだから、練習すればホーホケキョと鳴くことができる。

カラスがいくら練習してもホーホケキョと鳴くことは決してないし、そもそも練習しようとしないだろう。

ホーホケキョと鳴かなくても、ウグイスはウグイスだけど、ホーホケキョと美しく鳴くとき、その鳥がウグイスであることが一番はっきりわかる。

そのときこそ、ウグイスは最もウグイスらしい...と言っていいのではないか。

 

 

なぜ、こんなにウグイスのことを書いているのかというと、私の中では、クリスチャンのクリスチャンらしさを考えることに重なるからだ。

 

 

【ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。】エペソ5章

 

【あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。】エペソ5章

 

 

聖書は、私たちがどういう者であるのかを教えている。

人間が本当に人間らしく生きることを教え、そのための正しい道を示し、ふさわしく成長するためにステップを導いている。

 

神の子とされたクリスチャンが、愛の神に育てられている神の子らしい生き方をするには、やはり「ふさわしくなろうとする」練習が必要なのだ。

だから、御言葉は「ふさわしくなろうとせよ」と様々な表現で命じている。

 

最初からうまくできないからといって、神の子でないわけではない。

しかし、新しい生き方を練習することがないなら、何年たっても、神の子らしさは見えてこないのではないか。

 

あなたの周りに尊敬できるクリスチャンがいるなら、その人はきっと聖書が教える生き方を学び続け、練習し続けてきた人だと思う。

 

 

神の恵みにあって「変われない者」などいない。

変われないのではなく、「自分が変われると思えない」ことに落とし穴があるのではないか。 

 

自分がどのような者なのかを正しく知らないことが、ふさわしい実践練習を妨げているのかもしれない。

 

聖書の宣言、たとえば、神に愛されている、赦されている、新しくされたなどを、

本気で信じていないことが、

喜びと期待をもって地道な練習を続ける意欲を奪うこともあるだろう。

 

 

人間の赤ちゃんだって、つかまり立ちをして自由自在に歩くようになるまで、どれだけよろよろ転び、繰り返し練習しているかを思い出すなら明白だろう。

クリスチャンライフも同じではないか。

キリストの弟子らしく成長することも、そうに違いない。

 

救われた者なのだから、恵みによって救われた者らしく、

恵みの福音を生きるように、私はこれからも練習していく。

不格好なところも隠そうとしないで、失敗も恐れないで、練習中だと意識する。

弱さも愚かさも認めるし、停滞することもあるけど、あきらめずに練習していく。

私は変えられてきたし、もっともっと変えられていくと信じているから、練習する。

 

毎春、ウグイスの声に触れるたび、心新たに決意させられる私です。


【ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。】ピリピ1章

 

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騒ぐ心、沈む心に、希望の出口を

これまでのパターン、今の自分の状態、置かれている環境、周りの状況や人間関係...。

そういうものを見つめながら、明日のことを考えるのはやめよう。

 

これからどうなるのか、何が悪かったのか…。

どうしよう、どうしよう、と漠然と思い悩むことを手離そう。

 

 

聖書には、「見よ」と注意喚起する言葉が実に多い。

 

無意識にせよ、習慣的せよ、ついついフォーカスしているものから視点を変えるために、私たちは日々語り掛けを必要としているのではないか。

 

 

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。】マタイ28章 (※わたし=イエス・キリスト

 

【心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。...」】イザヤ35章

 

見よ。私は新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。】イザヤ43章

 

【まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を探し出し、これの世話をする。】エゼキエル書34章

 

見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。...見よ。わたしは、すべてを新しくする。】黙示録21章

 

 

 

信仰を働かせ、恵みによって自由にされた意志を用いてフォーカスを修正しよう。

 

天地万物を創造し、歴史を導き治めておられる方がどなたなのか。

この小さな私が、主とお呼びする神はどのようなお方なのか。

偉大なる主が、ご自身の真実をかけて語っておられる御言葉は、何を約束しているのか。

 

恵みの神、十字架と復活のキリスト、栄光の王である主のみことばを見つめながら、心を静め、穏やかさを保ち、今できることを考えよう。

 

主に信頼し、主を待ち望みつつ、目の前の小さなことを粛々と地道に行っていこう。

 

神様は、目的なく何事もなさらない。

主が把握しておられないことなど何一つない。

いま、この瞬間も、主の最善のご計画が進行していると、私は信じる。

 

私に今この経験を通らせることによって、

神様が私に気づかせたいこと学ばせたいことが、きっとあるはず。

 

この身に起きる全てのことを通して、主が私に学ばせたいと備えてくださっている真理を、私がへりくだって探し、見つめ、学ぶことができますように、主よ、助けてください。

私を、あなたが望まれるように造り変え続けてください。

 

【主の素晴らしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。】詩編34編

 

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祈りの世界

人にはだれでも祈り心があると思う。
人間ではない、はるかに高い領域におられる偉大な存在を思い、介入を望んで接点を得ようとする心の動き。
被造物である人間が自分のルーツである創造主を魂の奥底では知っているからだと思う。

 

このところ、聖書の詩編を味わっている。詩編はまさに祈りの言葉。


詩編を声に出して読み、黙想していると、その著者たちが体験していた神様とのリアルで親密な関係に「私の知らない世界」を見る。
それは、生ける神に向けられた本音の訴えであり、神との関係に生きる者らしい崇高な信仰告白で満ちている。


詩編を、創作ポエムではなく、我が神への祈りとして声にすると、このように祈れることへの強いあこがれと感動を覚える。

 

神様への絶対的な信頼の心。
また、神が神であるゆえに、親密でありながらも自分を低くし無礼をしない畏敬の心。

 

 

神がどういうお方であるかを正しく知ること、自分が何者であるかを正しく知ること、そして神様と自分との関係を正しく知ることによって、またそれらの理解が健全に深まることによって、祈りの世界はより豊かで生き生きとした神様との親密な交わりへと変えられていくのではないか。

 

 

私自身の祈りも、少しずつだけれども確かに変化してきた。

教会に通いながらなんとなく覚えて、当たり前のように使っている祈りの言葉に心が伴わない違和感をもった時期があった。


たとえば「御心が成りますように」という言葉。


私自身、あまり深く考えず、祈りに使う言い回しとして聞き覚え、クリスチャンっぽい決めゼリフのように使っていたような気がする。

(心のない祈りを平気で口にして、なんとも神様に申し訳ない…)


その後、「主の祈り」の講解メッセージを聞く機会が与えられて、「御心がこの地になりますように」の中身も学んだ。具体的には、教会のため、様々なミニストリーのため、牧師・宣教師などの働き人のため、魂の救いのためなど、御国が来るためのあらゆる必要について祈ることがこのカテゴリーに含まれると知った。

 

言うまでもないけれども、祈りにおいて、どういう言葉を使うかが重要なのではないだろう。
神様は、私たちの使うセリフ回しではなく、その言葉に込められている心に関心をもって耳を傾けてくださるお方だ。
子供が願いをこめてシンプルで真っすぐな祈りをするのを聞いて、大人が心を打たれるのはそういうことなのかもしれない。

 

 

いまの私が私的な祈りの中で「御心が成りますように」という言葉を使うとき、少なくとも2つの明確な決意を意味している。


まずは、自分の願いや考えを明け渡す決意


どうしてもこうなってほしい、あるいは、これだけは絶対に嫌だ…など、利害や過去の背景も複雑にからんで感情的に執着している事柄を意識しつつ、それを具体的に告白することから始める。
そして自分の言い分を赤裸々に打ち明け、最後に信仰に立って神様こそが主であると認め、恵みによって救われた者として恵みの神に信頼する。

 

このことについて、あなたの御心が成りますように。私の願いはお話ししましたが、それでも私が最も望むことはあなたの御心が成ることです。どんなことが実現したとしても、それが祈りの答えであり、あなたの御心だと信じます。」


このような明け渡しの告白に至るときほど、御霊の全面的な助けを感じることはない。

 

神様に明け渡して祈ったということは、「もう私には関係ない。神様の勝手にしていいから!」と捨て台詞で放棄したのとは違う。


むしろ、神様のタイミングと神様のやり方に委ねて、心からの信頼と服従を告白したということ。


だから、「御心が成りますように」と祈った上で実現した結果にケチをつけず、その道から退散することを考えず、精一杯関わります、という決意も込めて祈っている。

 

その決意すら全うできない自分を予測して、「自分が願う方向と違う結果でも主に信頼してコミットできるように助けてください」と重ねてお願いしておいて、意図的に心を定める。

 

すると不思議なことに、それまで抱えていた苦しいほど感情的な執着から自由にされたことに気づくことがしばしばある。


もちろん、たった一度ですっきり解決することばかりではない。
再び拒否反応や執着心で思い悩み、繰り返し明け渡す祈りへと導かれることもある。


しかし、何度でも明け渡すことで心は確実に自由へと変えられていく。


そこには、なんといっても、主が私の主として共にいてくださることを知る幸いがある。
私のただ中で、主の勝利をはっきり見せられるからだろう。

 

神様がなさりたいことのために、用いられやすい者へと整えられることが私の願い。


なぜなら、我が神は、御子イエス・キリストを一方的に与えて、滅びに向かうしかなかった私を闇から光へと救ってくださった恵みの主なのだから…。

 

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