天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

弱り果てるな

先日「水切りトマト」なるものを初めて見つけた。

水を極力与えずにストレスをかけて育てることで、旨味などが凝縮された甘いトマトが実るそうだ。

私が購入したものも、真っ赤に熟してみずみずしく、甘くて美味しかった。

 

 

聖書には、神様は人を成熟させるために苦しみを用いることが多く書かれている。

神様に信頼して耐え忍ぶように、実りの時を、ゴールの時を待ち望むように教えられている。

その忍耐や労苦が無駄になることは決してないと、みことばは約束している。

 

神様は、信仰をもって生きる者に「ストレスのない人生」を約束してはいない。

しかし、キリストのいのちを生きるために、必要なものは全て与えられると約束している。

 

また、クリスチャンが信仰に生きると、その人生には苦しみがあると聖書ははっきり告げている。

しかし、その苦しみは産みの苦しみで、とてつもなく大きな喜びに取って代わる日が来るとも宣言している。

 

苦しみにも色々あるだろう...。

 

あえて水切りトマトに重ねるなら、欠乏する前に常に水と肥料が与えられて最適な環境で充足されるどころか、必要な水もなかなか与えられず、じわじわと力が奪われ、干涸びて枯れそうになる時期が私たちにもあるかもしれない。

助けを求めて祈っても、待っても待っても解決が来ない...。

そういう時を既に通られた方もおられるかもしれない。

 

しかし、私はみことばによって知っている。

神様の恵みはいつも私に十分なのだ。

恵みが不足している時など、一瞬たりともないはずだ。

たとえ私たちの感情が欠乏を訴えたとしても...。

 

神様は、ご自身の栄光となる最高の実をならせるために、絶妙なさじ加減で絶えず世話をし、時を見極めて厳しく鍛える。放置して枯らすことなど、あるはずがない。

与えないことにも目的があり、より良くするための深い恵みだと、私は信じる。

 

 

【主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する子を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。...すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。】ヘブル人への手紙12章

 

 

神のなさることは、人の目にはわからない。

だから、私たちの選択肢は2つ。

現実に一喜一憂するのか、どんな時も神のことばに信頼するのか...。

 

神様は、私に、美味しい水切りトマトを手に取らせ、食べさせてくださった。

水切りトマトって、本当に甘い...。

この体験に霊的なメッセージが重なる。

 

「渇いても弱り果てるな。わたしを信頼して失望してはならない。」---と、神様の愛のことばが温かく胸に迫ってくるようだ。

私は、みことばに信頼し、みことばを切に慕い求める...。

 

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心が戦場になる?!

ここ数日、福音書をはじめから読んでいる。

私がどうか、周りはどうか、何をどうすべきかなどの答えを意識せず、イエス様がどういう方かとじっと目で追い、主イエス様の内に身を浸すような時間を求めて。

 

「あなたにとって、キリストであるわたしの価値は、どれくらいか?」

...という問いも、先週に引き続き、私の中に留まり続けている。

 

 

正直、なにか重苦しく、出口を探しているような感覚が続いている。

自分に何が起きているのか、わからない。

何か理由を見つけたくなる。

確かに、いくつか影響している事実はあるかもしれない。

しかし、いずれにしても、それらはすべて神様が用いる道具に過ぎない。

私から罪の性質や不純物が除かれ、神とより深く出会い、練られた品性や満ち足りる心が形成され、神様の栄光が表されるために、聖霊さまが私の内で働き、主が戦ってくださっているのだと、私は考える。

 

自分の内側が戦場になっているような時に、どうしたらいいか。

見えない戦いを終わらせようと自分で作戦を考え、決着をつけようとがんばるのか。

それは、自分自身に切り掛かるようなもので、より衰弱し、敗北感だけが増すことを私は経験から学んだ。

 

こんな時は、私の内に住んで私の聖化を仕事としてくださっている聖霊さまに信頼することだ。

どうなっているかわからなくても、事態が悪化していくようで苦しくても...。

私に与えられている約束、キリストの御霊である聖霊さまに信頼すること。

それが私にできる最善の選択だと、私は知っているし、そう信じている。

 

だから

心の中が波立ち、暗く沈んだり、苦痛や悲しみに飲み込まれそうになっても、

自己嫌悪や罪責感が攻めかかってきても、

私は、聖霊さまと真の敵との戦いとして意識する。

そうであるなら、問題や敵が何であろうとも、勝敗を心配する必要など全くない。

 

真面目だとよく言われる。完璧主義の傾向もまだ残っていると思う。

自分の性格の厄介さは承知しているつもりだ。

性格は性格として否定しなくてもいいと思うようになったけれども、

主にある自由から逸脱させるような真面目さは、主の前で「自分の義」を立てようとする過ちであり、つまり私は自らの罪の傾向によって苦しんでいるだけなのだと思う。

 

見えるところによらず、感じることによらず、

主に全面的に信頼し、

自分の義を放棄し、

他者と比較せず、

必ず成就していく神の御計画こそ最善と理解し、

キリストに依存するしかない何も持たない貧しい者として

恵みの福音に身を避けることをしっかり学ぶプロセスに

私は置かれているのではないか。

 

導いてくださる主に信頼していれば、出口はきっと来る。

まるで受刑者のような心にならないで、赦されている今を楽しむことを考えよう。

弱さにある時でも天国途上...。

 

【心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。】

マタイの福音書5章より

 

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スタートライン

「初心忘れるべからず」

「原点に帰る」

誰もが知っている言葉であり、その重要性をなんらかの形で経験したこともきっとあるだろう。

 

先日、クリスチャン映画『復活』(ケヴィン・レイノルズ監督 ジョセフ・ファインズ主演)を観た。

座席5列ほどの小さな劇場で、観客は私を含め7−8名。

採算がとれないかもしれないのに仙台で上映されたこと、一人静まって鑑賞できたことに、私は神様の計らいを深く感謝した。

私には「原点に帰らされる」ような時間だったからだ。

 

創造主である神に背を向けて自らの罪のために不自由に生きるしかなく、どんな人生を歩もうとも死後の裁きから逃れることができない人間のために、裁き主である神が人となってこの地に降りて来られ、救い主として十字架で身代わりに裁きを受けて、神の完全な愛と義とを立てられた。

主は、救いの業を完了され、死に勝利し、復活して今も生きておられる。

イエス・キリストを信じるなら、人生も死も本質が変わり、神の永遠の裁きを恐れる必要もない。

 

イエス・キリスト

このような神がおられる。

ご自身の言葉をことごとく成就される真実なお方がおられる。

尽きることのない赦しと惜しみない恵みをもって、導いてくださる救い主がおられる。

イエス・キリスト

 

 

映画を観ながら、復活のイエスに出会った人々のあふれる喜びや満ち足りた確信の眼差し、その真実に衝撃を受け変わっていく姿が心に迫ってきた。

イエス様がまことの生ける神であり、主がどんなに素晴らしいお方であるか、その感動が私の心を突き上げた。

 

私は、主ご自身をただ慕い求め、主の麗しさに満ち足りて、主と共にある人生を単純に瑞々しく喜ぶことを忘れていたのではないか...。

 

いつか必ず主に直接お会いできる、主は私をはっきりと知っていてくださる。

私は、このような素晴らしい主と共に永遠に生きることができる。

 

そんな幸いをいただく資格は何もなかったのに、むしろ絶望的な失格者でしかなかったのに、ただ一方的な恵みによって、私は主の十字架によって罪を赦され、永遠に住まう世界が闇から光へと変えられた者なのだ。

私の希望は、復活の主、イエス・キリスト

 

 

今週の礼拝メッセージでは、神のしもべとして神のミッションに仕える生き方が語られた。その歩みを妨げる恐れ、直面する苦しい現実が確かにあることも。

そして、厳粛に、このような問いかけで結ばれた。

 

あなたにとって、福音の価値はどのくらいですか?

 

 

嫌な思いをするくらい何でもない、と言えるほどの価値もないのか...。

 

疲れるとか、傷つくとか、誤解されたり恥ずかしい思いをするとか、摩擦が生じたり反発されたり避けられたりするとか、納得いかなくても理解に努め譲歩すること、失敗の痛みを負い、腹立たしくても赦す選択、孤独を味わうこと、自ら不自由に甘んじること、報われない空しさに耐えるとか...。

 

聖書の価値観で生きようとしているのに成果が見えなくて、悲しい、つらい、うまくいかない、という現実は確かにある。

笑いが止まらないような冒険とは違う、地味な葛藤の日々。

 

だから...?

それなら、もうやめるの?

 

気の向くまま嫌なことは避け、自分の罪をごまかし、保身に逃げるのか...。

苦しむほどにはキリストに従いたくないのか...。

イエス様に似た者に変えてくださるという神の約束を信じて、恵みに頼りながら祈り、日々チャレンジしていく歩みを、ここで投げ出すのか...。

神様のことばを聞き流し、主の前に顔を伏せて、自分を変えようとしないテキトー路線を走るのか...。

 

 

あなたにとって、キリストであるわたしの価値は、どれくらいか?

 

 

映画のエンドロールが流れ、真っ暗な劇場の中で、私はその問いかけを受けたような気がした。頭を垂れ、心に浮かぶこと一つ一つ、悔い改めの祈りをささげた。

 

福音の価値、キリストの素晴らしさ、救いの圧倒的な恵み。

それが私のスタートライン。

主よ。このスタートラインに、いつも私を立たせてください。

イエス様、私はあなたを愛します。

 

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「思い通りにならない」と嘆きたくなる夜に

気落ちさせる出来事がある。

周りの人たちが期待通りでない。

家族が願い通りになってくれない。

職場、学校、教会、地域、環境が、望み通りでない。

何より、自分自身が、ちっとも思うようにならない。

 

何もかも良くならない。

いや、悪くなっていくばかりではないか、このままずっと...。

 

 

私たちの感情は自分自身を欺く、と聖書は指摘している。

その通りだ。

まるで自分から見える世界がすべてであり、自分が感じていることすべてが真実であるかのように現実を思い込み、その感情に支配されるとますます自分が見ているようにしか物事が見えなくなる。

 

これも聖書の示す「罪」の一面だと思う。

 

自分の状態の悪さだけがリアルに迫ってくると、嫌悪感や被害者意識の出番だ。

自分だけが苦しんでいるような気持ちに陥る。

甘えの心理に飲み込まれていく。

どこにも希望がないかのような絶望感が漂う。

 

 

誰の人生にも苦しい時があり、思い通りにならないことがたくさんある。

誰もが、耐えるしかない現実を抱えながら生きる者なのだろう。

自分だけじゃない。

あなただけじゃない。

 

 

それでも私は、言葉にならない気持ちを抱えながら呼べる名前を持っている。

「主よ。主よ。私の神様...」

と、すがることができる確かなお方を知っている。

なにも説明できなくていい、お名前を呼ぶだけで、主は私をわかってくださる。

なんという慰めだろう。

キリストである主のお名前を呼べることが、私の人生における最高の賜物、最大の力。

 

主のお名前を呼ぶ。

呼ぶ、呼ぶ、呼ぶ...。

そうしていると、少しずつ、何かが変わってくる。

しめつけられていた心が、ふっ...とほどけてくる。

神様の語りかけのように御言葉が思い浮かぶ。

 

 

何も思い通りにならない...そんなこと当たり前か。

だって私は神様じゃないんだから。

神様の思い通りになっている。

それを信頼すればいいことでした、そうですね、主よ...。

 

 

手応えがあろうと、なかろうと、なすべきことを淡々と行って、

一日一日を耐える力を与えてください。

 

私は、自分の感じることではなく、あなたの御言葉こそ真実だと信頼します。

私に忍び寄る欺きの束縛から、どうぞ守ってください。

私は永遠を思います。

地上においてはすべてが聖化につながり、天に召される時は栄化が実現し、すべてがはっきりとわかる日が来ると信じて待ち望みます。

あなたの御心が、この身に、この地になりますように...。

 

イザヤ書55章より

  わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、

  わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。

     --主の御告げ--

  天が地よりも高いように、

  わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

  わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

  雨や雪が天から降ってもとに戻らず、

  必ず地を潤し、

  それに物を生えさせ、芽を出させ、

  種蒔く者には種を与え、

  食べる者にはパンを与える。

  そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、

  むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

  必ず、わたしの望むことを成し遂げ、

  わたしの言い送った事を成功させる。

  まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、

  安らかに導かれて行く。

               

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バッドタイミング OR グッドタイミング

ここぞという時って、ありますよね。 

その機会を生かすか、台無しにするかの差は、その時に自覚している以上に大きいのかもしれません。

 

先週あった夫婦の一コマから。

その日は早朝から慌ただしく、まる一日聖書セミナーに出て頭をフルに使い、帰宅して簡単な夕食を済ませてからブログ更新の仕上げをし、充実感はあるものの頭も体もヘロヘロの夜でした。

 

夫は職場の飲み会があって遅いとわかっていたので、今日は先に休むことを伝えておこうとスマホを手にすると、夫からのメール着信。

終電より早い電車に乗れそうということで、最寄駅の到着時間が記されていました。その時間は約30分後。「疲れていたら先に休んでていいよ」とも書かれて。

 

どきっ! むむ...。 そっか〜、う〜ん。 

どうするかなぁ...。

自分のプランが狂わされる場面の言葉にならない心の揺れ動き...。

 

車通勤の夫が電車で帰るのはたまの飲み会くらいで、必然的に深夜ですが、迎えに行かなくても怒ったりする人ではありません。徒歩でも15分ほどで帰ってこられます。

でも、だからこそ、私はできるだけ車で迎えに行って「お疲れ様」とねぎらって出迎えたいと思っています。

夫が無事に帰ってくることも、当たり前ではないと思うからです。

 

ところがその日の私は、既にパジャマに着替えて眠気に包まれ、すっかり就寝モードになっていました。

 

このメールが届くのが10分遅かったら、何も気づかずに熟睡中だったはず。

タイミング悪いなぁ〜、と愚痴が頭をよぎりました。

しかし、聖書セミナーで心が満たされていたおかげでしょう、ハッと考えが修正されました。

 

違う違う!

タイミングよかったのよ。

私が迎えに行けるように、神様がこのタイミングで夫にメールをさせ、私はそれを見ることができたのよ。

 

「なんとか、もうひと頑張りする力を与えてください。」と私は祈りました。

 

 

笑顔で気持ちよく夫を送り出すこと、あたたかくねぎらい夫を出迎えること、この2つは特に大切に心がけていることです。

毎日仕事をしてくれている夫への感謝と尊敬と応援の気持ちを表現しているつもりです。

 

だって、いつ何があるかわからない。

最後に見た妻の顔は笑顔だった...と思ってもらえるようにしていたい。

 

 

しょぼしょぼする目をこすりながら駅で待つ。

人がまばらに出て来て、ついに誰もいなくなった。

が、夫が来ない...。

電話してみると、寝ぼけた声で「乗り過ごしてしまった」と言う。

しかも、私が電話した時には次の駅も通り過ぎたところでした。

 

マジか...?

 

2駅先だと車でも20分以上かかる。折り返しの上り電車はもうない。

えぇ〜ん、マ〜ジぃ〜?! 

どうする? 

あぁ、もう、眠いよ〜!

主よ〜、助けてください〜!!

 

私は気持ちを切り替えてエンジンをかけ直す。

松島方面へ出発しました。

安全を祈りながら深夜の道を走らせているうちに、私の心は夫を出迎える準備が整えられていくようでした。

 

暗い駅前でポツンと待っていた夫を見つけて、私は何の抵抗もなく笑顔で手を振りました。

「お疲れ様。大変だったね。」

「ごめん、ホント、ごめん...」

「よかったよ、寝ちゃう前で。道も空いていたし。無事に着いたし。」

「君がやさしくて、よかった...」

「迎えに来る体力が残っていてよかったぁ〜」

 

私は心穏やかに来た道を夫を乗せて引き返しました。

 

私がやさしいのではありません。

それは私自身が一番よくわかっています。

夫のほめ言葉を受けるべきお方は、神様なのです。

だから私は、心の中で神様にお礼を言い、主をほめたたえます。

 

 

「いや、私じゃなくて、神様がしてくださったんだから」

とかいう謙遜じみた信仰の言葉を無理に突っ込んでしまう...という失敗を私は何度もやったことがあります。

神様の恵みに気づいてほしい一心からです。

 

だけど、それは、夫の心からのコメントを不正解とし、その思いを踏みつけてしまうに等しい...と失敗を重ねながら学習しました。

だから、今は、夫が私をほめてくれた時は素直に喜びます。

ありがとうね、嬉しい、と答えます。

そして、私が神様に感謝をささげるのです。

いつか、私の夫が、直接あなたに感謝をささげる日が来ますように...と添えて。

 

妻を通して夫に神様の恵みが流れること。

それはとても狭い小さな世界のことだけれども、

神のしもべとしての私の、最も重要なミッションだと思っています。

 

【妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。】第一ペテロの手紙3章

 

日常の些細なことにも助けを与えてくださる主に、栄光がありますように!

 

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良い時も、悪い時も、色々あります

ぽとん...と何かの穴に吸い込まれてしまったみたいに、気づいたら見える景色が変わってしまっていることがある。

 

心が自分のものでなくなったように反応が悪くて、

自分だけ取り残されたような心細さが広がる...。

希望と喜びで見えるものがキラキラしていたのに、なぜか今は色あせている。

信仰の躍動感はどこにいってしまったのか...。

 

私、神様から離れてしまった?!

どうしよう、どうやって戻ったらいいんだろう...。

あれをしたのが悪かったのかな、こうしなかったせいかな...。

 

この穴から一刻も早く這い出したくて焦る気持ちが、自分の欠点探しに拍車をかける。

こんな時の原因探しは、恐れや失望を増大させていく。

 

ちょっと待った!

自分自身を見つめ、絶望感や自己嫌悪に陥ることこそ、本当の罠だ。

 

 

私のコンディションはこうも変わりやすく、愚かしく、頼りない。

 

しかし、主は、常に真実であり、昨日も今日も永遠に変わることがない

主が賛美されるべきお方であり、信頼に値するお方であることは何も変わらない

たとえ、私が最低最悪のときでも...。

 

私の望みは、ただ主にある

主は決して私を離れたりなさらない

 

見える景色が変わることがあっても驚くことはない。

主が共にいてくださることが決定的なのだ。

私にはわからなくても、主はすべてをご存知だ。

 

自分のフィーリングに右往左往しないで、主に信頼しよう。

 

恐れるな。

騒ぐな、焦るな、私の心よ。

取り繕い、装い、隠す必要もない。

静まって、主を待ち望め。

 

十字架のキリストが、私の神なのだから...。

 

 

詩編6より

 主よ。御怒りで私を責めないでください。

 激しい憤りで私を懲らしめないでください。

 主よ。私をあわれんでください。

 私は衰えております。

 主よ。私をいやしてください。

 

 

詩編37より

 人の歩みは主によって確かにされる。

 主はその人の道を喜ばれる。

 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。

 主がその手を支えておられるからだ。

 

 

詩編40より

 私は切なる思いで主を待ち望んだ。

 主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、

 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。

 そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美をさずけられた。

 多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

 

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普通が普通ではないと気づく時

五月連休を利用して熊本へ行ってきた。

前々から阿蘇旅行を計画して温泉と登山を楽しむ予定でいたのだけれども、今回の地震の影響で当初予約していた宿は宿泊不可となった。

夫婦で話し合い、余震があるけれども旅行をキャンセルするのではなく、少しでも現地の応援になるようにしようということで登山ではなく災害ボランティアに参加を決めた。

 

営業している温泉旅館に予約を取り直し、阿蘇の麓、黒川温泉で連休はなかなか予約がとれない宿にゆったりと泊まることができた。

宿の方から伺った話では、4月末は宿泊客ゼロというこれまでになかった状態だったそうだ。何事もないように明るく接客している心の内は想像も及ばない。

 

断層なのか亀裂が道路を横切るように所々走っていて砂利で簡易的に補修してあるもののガタボコしていたし、ブルーシートの被災家屋や完全に傾いたり倒壊している家屋も目立っていた。田舎道まで再建が進むのはいつになるのだろう。

昼夜を問わず余震があり、いつどこで何が崩れるかわからない。

現地の方々が安心して眠れる日はいつになるのか。

一日も早く余震がおさまりますように...。

 

県外からのボランティアを受け付けていた西原村災害ボランティアセンターに並んで、被災家屋の修繕のお手伝いをさせていただいた。作業の最中も余震に備えて安全確保の注意が呼びかけられていた。断水もまだ続いている。

作業をするボランティアたちに頭を下げて感謝する老夫婦を前に、なんと返事をしてよいものか言葉につまる。何を言っても安易に感じて、こちらも頭を下げるばかりになってしまった。

 

最終日、雄大な阿蘇ドライブは真っ青な空に緑が映えて素晴らしかった。

美しい自然は変わらないのに、道路も観光名所もサービスエリアも混雑はない。

現地の方によると、GWとしては例年の一割程度の客足しかないという。

土砂崩れの危険があるのか、立ち入り禁止のロープが張られている見晴台もあり、熊本城はもとより観光地としてのダメージは測り知れない。

 

大好きな阿蘇、熊本。必ずまた行きます!

 

 

私たちは今日と同じような生活が明日も来月も来年も続くと漠然と信じ、その前提で色々と考えたり計画を立てる。

しかし、今日の生活が明日も同じように保たれている保証はどこにもない。

だから、今日が平和であり普通が保たれているなら、大いに感謝しよう。

「いつも通り」は当たり前ではなく、とても素晴らしい幸福だ。

 

東日本大震災のとき、約2週間ぶりにお風呂に入ったときの感謝と喜びをすぐに忘れてしまう私である。

今日も電気が使えることに驚かない。

慣れとは恐ろしい。

体調が悪いと神様に癒しを願うくせに、頭痛がない日に喜び祈ることがない。

今日も心臓が動いているからといって感謝を覚えない。

 

良くて当たり前...

安全、便利、快適なのが普通...

つらい思いをさせられるなんておかしい...

不利益を被るのは納得いかない...

嫌なものはとにかく遠ざけたい...

 

このどうしようもない身勝手な感覚こそ、不平不満の原因であり、人間の罪の現れではないか。

 

私たちが「普通」と認識する中身は本当に普通なのか。

驚きをもって感謝すべきことは山ほどあるのに気づかない。

気づいていないことにも気づかない。

 

しかし、神様の恵みは、恩恵に鈍感で感謝を忘れている者たちに、なおも惜しまず注がれている。

そう、まさに私のような者にも...。

 

恵み深い神様が喜ばれ、心から賛美されますように!

 

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