PLANT & WATER
【私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。】第一コリント人への手紙3章
ガーデニングの話ではない。
ガーデニングにたとえて、人が育っていくことを語っている。
人の心に福音の種が植えられ、芽生えた信仰が成長するように必要な世話がなされて、信仰者が生まれ育つことのたとえだ。
そこには、愛と忍耐と知恵、継続的な関わり、適切な栄養と保護、剪定にあたるような痛みの伴う取り扱いなど、様々な要素が含まれるだろう。
今年の夏、この聖書箇所を中心に “PLANT & WATER” というテーマでメッセージを聞き、新鮮なインパクトをもって多く教えられた。
物事の見方や自分自身の人生観もまた新たにされた。
この“PLANT & WATER”は、私のクリスチャンライフそのもの、生涯かけて取り組む生き方として私の心に刻まれた。
そして、そのような意識を持ちつつ実際に行動する中で、さらに恵みが深まり、平凡な毎日に喜び、挑戦、感動、感謝が増し加わっている。
なんという幸い!
人が福音を理解し、イエス・キリストを信じて救われるのは、ただただ神の恵みによる。
人の功績が入る余地はない。
しかし同時に、神様は、私たち人間の関わりを尊く用いてくださることも、さきほどのみことばで確認できる。
私が今回、新鮮に理解したことは、複数の人がその場その場で関わって、いろんな人のいろんな “PLANT & WATER” が積み重なって、神様の御計画が実現するという視点。
いい意味で気負わなくなったというか。
伝道の考え方にも柔軟性を与えてくれた。
変化らしいものがすぐ生じなくても、小さな関わりは価値ある1PLと理解した。
“1PL”というのは、私が勝手に造語したもので、貯金箱にコインを一枚入れるイメージ。
いろんな人が、今日もチャリン、明日もチャリン、と入れる。
貯金箱は人の心にある愛の入れ物とでも言おうか。
ある人は気持ちのいい笑顔を家族や同僚に与えてチャリン、
ある人は明るい言葉で周りを元気づけてチャリン、
ある人は誰かの救いや成長のために祈ってチャリン、
ある人は困っている人の手助けをしてチャリン、
ある人はゴミ捨て場の片付けをしてチャリン、
ある人は教会の奉仕を申し出てチャリン、
ある人は素直に謝ってチャリン、
ある人は夫を重んじてチャリン、
ある人は伝道コンサートに知人を誘ってチャリン、
ある人は誰かの痛みに温かな同情を示してチャリン、
ある人は食べ盛りの学生を食事に招いてチャリン、
ある人は福音の真理をわかりやすく伝えることに苦心してチャリン、
ある人は寂しそうな子を笑わせて楽しませてチャリン、
ある人は忙しいシングルマザーに慰めを与えてチャリン、
ある人は悩みを訴える人に聖書の真理で答えてチャリン...。
あらゆることを、“PLANT & WATER” の意識で行うことができる。
その貯金箱の中身がどうなったかは神様だけがご存知だし、神様がどう用いるか、何を実らせるかは、誰にもわからない。
私のチャリンが満杯の瞬間になるかもしれないし、何の動きもない途中の一枚かもしれない。
かりに、満杯がその人が信仰告白して救われる瞬間だとしても、決定打が誰のタイミングだっていい。
その人が新しい命を喜び生きるようになるのなら。
その人の本当の幸福のために少しでも協力させてもらえた、それが幸せだ。
いつ、だれが、どこで刈り取るかわからない。
どこかで、だれかが、その実りを見るかもしれない。
何より神様は、そのプロセスのすべてを知っていて導き、用いてくださる。
私は、“PLANT & WATER” を意識するようになってから、友人知人に限らず笑顔と挨拶、あるいは親切のチャンスを探すようになった。
たとえばウォーキングの時、もし目が合うなら明るく挨拶して通り過ぎようと決めた。
じろじろ見たら失礼だからさりげなく、でも目が合わないように避ける態度とは違って目が合ったらいいなと、祈りながら顔を上げて歩く。
無視されることもあるけど、いずれにせよ、1PLなのだからOK。
以前よりずっと挨拶を交わし合うことが増えた。
私の行動範囲にいる人たちは、みんな “PLANT & WATER” の対象だ。
いつでも “PLANT & WATER” のチャンス に立っていると覚えたい。
たった一度しか会わない人であろうとも、何かの形で1PLできるかもしれないのだから。
“PLANT & WATER” の毎日は使命感を伴って新鮮になり、感謝と祈りが深まっている。
私は、主であるイエス・キリストの素晴らしさを伝えたくてたまらない。
このブログも、そんな思いが書かせている。
読んでくださっているあなたの心にも、私からの1PLが届きますように。
小さなことから
先週、夫婦で北海道を旅行してきた。
その時のエピソード。
仙台空港から千歳へ向かう飛行機が早朝だったので、朝食は移動中にコンビニで買って済ませることにしていた。そのコンビニで私は朝食分に加えて1つ多くパンを買おうとしていると夫が一言。
「それも食べるの?」
「これは明日、山で食べる分。これ、あんまり置いてないから買っておくの」
(翌日は夫婦で大雪山に登る計画だった)
「あっちで買物するんだから、ここでわざわざ手荷物増やさなくていいでしょ」
「でも、このパンは一口サイズで山にはぴったりだし、好きなんだもん」
「だから、あっちで買えばいいでしょ」
「はーい」と、私はそのパンを棚に戻した。
私は夫の判断や助言には基本的に従うと、聖書の教えによって心を定めている。
だから、私の主張が却下されたことへのわずかな不服が残る心の中で祈った。
「神様、むきにならずに従うようにさせてくださり感謝します。あのパンが北海道で買えますように。」
千歳空港からレンタカーで移動中に旭川のイオンで様々まとめて買物。
しかし、あのパンは見つからなかった。
途中コンビニにも寄ったが、品揃えが違って、あのパンがない!!
ーーーほら、やっぱり朝のコンビニで買っておくべきだったんだよ〜!(心の声)
朝の一件など忘れたかのように目的地を目指して走行中の夫に私は言った。
「ねぇ、朝のパン、やっぱりこっちで売ってなかったよ。残念だなぁ。」
嫌味はなく、サラリと会話にした。
朝のやりとりを思い出して、「そっか、なかったか。残念だったね。」くらい言ってくれたら、「うん。でも他のを買ったから大丈夫。」と機嫌よく答える気持ちだった。
ところが夫は、買物や移動に時間がかかりすぎてホテルチェックインに遅れることが気になっていたらしく、そっけない口調でこう言った。
「あ〜、あれか。いいじゃん、そんなの。」
「!!!」(はぁ?そんなの?!...私は言葉を飲み込む)
確かに、他のパンでも問題ない。
しかし私には「パンはどれでもいい」というより、「妻の願いなんてどうでもいい」というメッセージとして伝わってきて、とても悲しくなってしまった。
ラジオの音声だけが空しく響く無言の車内で、心が曇っていく。
あーそう。私の気持ちなんで、どうでもいいってことね!
私の思考はどどっとネガティブモードに染まりかけた。
しかし、その時、聖書のことばが私の心に割り込むように働きかけてきた。
【怒っても、罪を犯してはいけません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。】エペソの手紙4章
ーーーそうだ。こんなことで不機嫌になったら、始まったばかりの旅行が台無しになるだけ。夫は旅行の全体を気にかけ、明日の山の天気や装備も考えながら、長時間運転してくれている。今朝は、聖書の教えに従って夫の言葉に従ったんだから、主がわかってくださっている。主は私の選択を喜んでくださる。それで十分じゃないの。こんなつまらないことで夫婦が険悪になったら、それを喜ぶのは悪魔の軍勢だけ。あぶないとこだった。神様、気づかせてくださって感謝します。ーーー
私は明るく話題を変え、翌日の登山計画を確認したりして和やかにドライブを楽しんだ。
無事にホテルに着いてくつろぎながら、夫の判断や言い方を責めたり、ふてくされた態度になったりしないように守られたことが嬉しくて、心から主に感謝した。
パンなんて、どうでもいいわ...心からそう思えた。
主が共にいてくださる。
この祝福こそ、最高なのだから。
食いしん坊な私のお粗末ぶりを披露したが、私の信仰生活はこのように小さなことの連続で導かれている。
一歩一歩、自分の足で上り下りする登山のよう。天を仰いでみことばを慕うか、足下ばかり見つめて自問自答を繰り返すかの違いは大きい。
主の介入がなかったら、私はいとも簡単に愚かな感情の奴隷になってしまう。
私たちの心は、たいてい、ささいなことを火種に強情になり、余計な一言を口にし、プライドも手伝って批判や対立へと、愛する道からそれてしまうのではないか。
そして、自分自身や正義を守っているつもりで、実は備えられている祝福を自ら放棄してしまうのかもしれない。
小さなことでへりくだって従順できないなら、もっと重要なことで、どうして夫に従う選択ができるだろうか。
小さなことで明け渡すこともできないのに、神様に信頼して自分の執着を手離すことなどできるだろうか。
失敗しても恵みの中。小さなことで日々練習できるのは、神のご配慮、深い愛。
【賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。】エペソの手紙5章
希望の出発点
大河ドラマ『真田丸』がおもしろい。脚本が三谷幸喜なだけあって随所にシャレが効いている。私が時代劇好きなのは子供の頃からで、祖母や父母の影響だと思う。
周りは西城秀樹や郷ひろみにキャーキャー言っているというのに、私は『遠山の金さん』に夢中で杉良太郎が片肌脱いで啖呵を切る(わかる人にはわかる話)マネをしている小学生だった(笑)。
私の父は私が結婚して間もなく亡くなった。まだ50代の若さだった。
真田丸を見ながら、その父を思い出す。
「自分は生まれてくる時代を間違えたんだ」と、父はよく言っていた。
その意味は、自分は戦国時代に生まれるべき人間だったということらしい。戦乱の世なら命がけで君主に仕え勇猛果敢に戦って一旗上げて、時代に名を残せたかもしれない...という男のロマンを語っていたように記憶している。
家庭的とは言い難いそんな父を、私は嫌いではなかった。
私たち人間は、確かに時代に翻弄される存在だろう。
どの時代にどの国に生まれ、どんな家庭で、どんな環境で育つかの影響は小さくない。
自分の世界が自分の望んだものと違うと気づいたとしても、「自分はここにいるはずではないのに...」と考え続けるのと、「自分は今ここで生きるように神様に創造されたのだから...」と考えるのでは、だいぶ生き方が違うように思う。
聖書には次のような言葉がある。
【あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、「何の喜びもない」という年月が近づく前に。】伝道者の書12章
創造主なる神...という知識を、全く知らずに私は育った。
人生は残念ながら不公平で、生まれる前から定まった抗えない運命で動かされていると漠然と信じていた。
だからか、本気で抱く夢はなく、無理を承知でチャレンジする楽しさを知ることもなく、やってくる運命と折り合いをつけて大きな失望をしないような生き方を身につけて大人になったのかもしれない。
--- 創造主なる唯一の神がおられる ---
この聖書の真理は私の人生観を一変させた。
私という存在に真のオーナーがいて、そのお方は愛と義なる全能の神様で、私のような小さな一人まで目的やご計画をもって創造してくださったのだ。
私がいま、ここに、生かされているということには、神様の意図がある。
嬉しい状況でも苦しい状況でも、私が何を持っていようと何を持っていないとしても、神様が私に望んでおられること、私に学ばせ実行させようとなさっていることは何だろう...と、答えをもっておられる方を仰ぐことができる。
「生まれてきたのが間違いだった」などという考えは入る余地がない。
この真理は、私たちに自分の人生を最後まで全うする力を与え、仮に出口の見えないトンネルの中を孤独に歩むような日々にあったとしても心の支えとなり得る。
人生の意味が見出せず、生きにくい時期というのは、誰にもきっとあるだろう。
いや、今は、子供から大人まで、生きることに疲れる時代であることは明白だ。
しかし、信頼に値する確かなお方、永遠を治める創造主を人生のオーナーとして知っていることこそ、この時代に決定的なのではないか。
創造主なる神がおられることを出発点とし、人間や世界を被造物であると認めて生きるとき、自分の人生だけでなく世界の歴史すらも意味合いが違ってくる。
そこには決して消えることのない希望の光が射し貫いているように私には思える。
【初めに、神が天と地を創造した。】創世記 1章1節
つぶやきがこぼれる時
今週の礼拝メッセージで教えられたことを繰り返し黙想している。
それは「希望を奪う愚かなつぶやき」と「希望を生み出す確信」について。
私自身、心の中でつぶやくことが多い者だと気づかされる。
良かれと思ってやったことが裏目に出た時など、やりきれない気持ちをひきずる。
私たちは、意志を働かせて「希望を生み出す」選択をしなければならないだろう。
希望を奪う愚かなつぶやきとは、
神様はわかっていない...。
神様は助けてくれない...。
神様は私が祈っても何もしてくれない。
神様は私に良くしてくださらない。
私は神様に愛されていないのではないか...。
つぶやきは、思い通りにいかない苦しい状況や解消されない悲しみや疲れ、長引く不安など、それなりに理由があるから出てくる。
自分はクリスチャンだと思っても、イエス様を信じていると言っていても、神のことばである聖書を知らなければ、聖書から真理を学んでいなければ、状況と感情に私たちは揺さぶられ続ける。
しかし、感情が何を訴えても、聖書の真理に信頼するなら、希望が見え始める。
その希望は悲しみや苦しみの中で私たちを支え勇気づける。
信頼がポイントだ。
聞いて知っていても、いざとなると信頼して歩まない傾向が私たちにはあるのではないか。
希望を生み出す確信とは、
神様は全知全能の神。すべてをご存知で、すべてを見ておられる。
神様にできないことはなく、その力、その英知は測り知れない。
神様は愛である。あわれみ深く、恵み深い。
神様は私たちの祈りを確かに聞いておられる。
神様は、私たちのほんとうの最善をご存知で、神様の英知で常に最善を進めてくださっている。
問題は、「自分は神様よりわかっている」という勘違いにある、と牧師先生は指摘された。その通りだと言わざるを得ない。
その誤りから、神様への不満、疑いの感情が芽生える。
そして、自分の感じていることを基準にすると、霊的に漂流し始める...。
牧師先生のたとえがインパクトがあってわかりやすかったのでシェアしたい。
私たちはノアの箱舟のように完全な真理の内に守られているのに、嵐に襲われると、なぜかノアの箱舟からわざわざ簡易的な救命ボートを出して荒波の中を避難しようとする。どちらが安全なのですか。救命ボートで平安を得ることはありません。だれの人生にも嵐は100%やってきます。しかし、決して沈まない真理の箱舟に留まっていれば守られるのです。
自分に思い当たることがありすぎて笑ってしまった。
救命ボートを自力でこぎながら、「神様、なぜですか」と嘆いていることがなんと多いことか!
つぶやきが出たら、希望を生み出す確信を選択するチャンス。
そう心に刻みながら、「みことばの真理の内を歩ませてください」と祈っています。
【主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。】イザヤ40章
本当の幸いを知る道
【みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。...自分は宗教に熱心であると思っていても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。】ヤコブの手紙1章
クリスチャンとして誠実にみことばに向き合うなら、心を刺されずにいられない聖書箇所の一つではないかと思う。
痛いところを突かれて、後ろめたさや反発の感情が入り乱れるかもしれない。
だって...、でも...、っていうか...、などと言い訳が頭の中を駆け巡ることもあるだろう。
考えないことにしよう...という方向で不快感からの脱出を試みますか。
それとも、ダメな自分を見つめ、落ち込みやすいですか。
私自身、そういう誤った反応に陥りやすい者だと自戒をこめて振り返る。
しかし、聖書のことばに心を刺されたなら、それは祝福ではないか。
ダメ出しは確かに気持ちよくはない。
それでも、神様からの「変わりなさい」「悔い改めなさい」という迫りは、100%愛だと思う。
聖書のことばが力をもって迫ってくるのは、神様の恵みに他ならない。
神様は、ありのままの、つまり罪あるままの私たちを愛して、イエス・キリストという救いの道を備えてくださった。
しかし神様は、キリストを信じる者たちが、信仰を持つ前と同じままであるのを喜ばれない。信仰者らしく、イエス・キリストを自分の主とする者らしく、聖書で考えて聖書で行動するように、新しい生き方を教え、みことばに従うように命じている。
そこに、信仰者のいのちがあるからだ。
聖書が教えるように変えられていくことこそ、クリスチャンとして本当の幸いを知る道だと私は思う。
今週の礼拝メッセージで、私は罪について教えられた。
誰もが日常的にやっていることも、世の中で罪に問われるような大げさな悪事でなくても、私たちは聖書で罪を認識する必要がある。
明確に罪かわからない場合も、そのことが神様に喜ばれるかどうか、一呼吸おいて考えた時に疑問が残るなら避けるべきであろうと。
心刺されるメッセージであり、本当の幸いへと向かわせる真実な聖書の解き明かし。
数日後、私は早速、このメッセージの実践テストを受けることになった。
その日は用事があって車で外出。目的の会場には駐車場がないので、パーキングを探していたら広めの駐車場があるドラッグストアが目に入った。
「あ、ちょうどいい。ここに停めさせてもらっちゃおう。」(心の声)
一応そこで買物をして、店の袋がよく見えるように助手席に置いた。
「これでよし。もし店の人が不審に思って見に来ても大丈夫だよね。私は買物客だから。」
...あぁ、恥ずかしい。これが私のありのままの姿。
車から離れて歩き出してすぐ心がもやもやしてきた。
礼拝メッセージが思い出され、葛藤が始まる。
「いや、だって、買物したもん。広いし。二時間くらいだし...。」
心の中で飛び交う正当化の言い分を終わらせたのは、冒頭に書いたみことばだった。
降参だ...。
店の人が黙認してくれたとしても、直接だれかに迷惑をかけなかったとしても、神様がこのことを喜ぶとは決して言えない。
私は車に引き返し、さらに離れた所にある有料パーキングに入った。
たった数百円を惜しむ愚かな行動。
私の車一台くらい迷惑にならない、二時間なんて短いもんだと、自己中心的な基準で考えて罪に鈍感な自分の実体に気づかされ、悔い改めて祈った。
すると、先ほどのみじめな気持ちから一転、なんとも心が晴れ晴れして感謝があふれてきた。
よかった...。あのまま平気でズルして得した気分で終わらなくて、神様が方向転換させてくださった。ありがたい...。
神様のことばと神様の助けがなかったら、私は自分を欺いたまま、むなしい“信仰生活”しかできない者だ。
【あなたは、自分は富んでいる、豊かになった。乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。...わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。】黙示録2章
自分の心を欺いている...とは、こういうことなのだろう。
自分が何をしているのか、どんな状態なのか、本当のことがわからない。
持つべきものを持たず、罪にまみれているのに、まずまず合格のつもりで平然と過ごせる。
そのままで最終的に神の前に立つ時が来たら、一体どうなるのか。
みことばに心を刺されたら、失敗に気づかされたら、素直に認めて悔い改めよう。
そして「みことばを実行する人に私を変えてください」と、恵みの神に助けを求め続けよう。
私は変わることができる。
なぜなら、神様にはそれがおできになるからだ。
見えない世界が見えるなら
創造主なる神を唯一の神として生きた人々とそこに確かに働いている神のわざを読むと、天地創造のはじめから歴史を貫いて働く全人類の神、総合的に物事を導いて現実を動かす神、人間一人ひとりの心と生活に介入する神のリアリティが具体的になって、史実の力強さをもって私を感動させる。
ドラマチックな場面はたくさんあるのだけれども、今回は北イスラエル王国に実在した預言者エリシャの場面を紹介したい。
【そこで王は言った。「行って、彼がどこにいるのか突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに「ああ、ご主人さま。どうしたらよいでしょう」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者より多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」
主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。】第二列王記6章
火の馬!
空を飛ぶ戦車!
...馬鹿らしい。こんなのフィクションだ。
ファンタジーが書かれているのでしょう、と思いますか。
私は、現実の出来事が、神様の特別な導きにより、そのまま記されたと信じる。
ファンタジーではない。
見えない世界、霊的現実の描写。
私は弱気になりやすいタイプなので、読むと胸にぐっとくる。
「恐れるな」という言葉がまっすぐに心に迫り、奮い立たされるような気持になる。
若い召使いが二度「なんと」と驚愕している様子が面白い。
一度目は、王が遣わした大軍が町を囲むのに驚き、絶体絶命だとうろたえる。
二度目は、神が遣わした天使の大軍が山に満ちているのが突然見えて、絶句。
町を包囲するのと、山を覆うように空中に満ちるのと、どちらが軍隊として強大だろう。答えるまでもないことだ。
初めてこの箇所を読んだとき、一度でいいから私も目が開かれて見えたらいいのに!と本気で願った。しかし、現代、神様はそういう方法でご自身を知らせることはなさらない。
しかし、見えないだけで、神はご自身のわざを絶えず成しておられるし、天使たちも大いにこの地上で働いているはずだ。
悪霊も策略を張り巡らして人を惑わし縛っている。平和の実現を妨害している。
イエス・キリストを主として生きている仲間たち。
もしあなたが、ひとりぼっちだと感じても、ほんの2、3人で大軍と戦うかのような完全不利と思われる状況にあるとしても、あなたはこう言うことができる者なのです。
「恐れなくていい。大丈夫だ。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者より多いのだから。勝利はわれらの主イエスにある。」
いや、上空で取り巻く神の軍勢というより、私たちには、神ご自身であるキリストの御霊が内に住んでくださり、一瞬も離れず共にいて永遠の御国まで保証し助け導くと、聖書に約束されているではないか。
見えなくても霊的世界があることは、誰でも魂では知っていると思う。
だから、多くの人は墓前で故人に語りかけたり、慰霊祭をしたり、たたりを恐れたり、願掛けや占いをしたりして、見えない霊的領域があることを前提に生きている。
確かに、この世は見えない霊的なものの影響を受けて存在している。
見えない世界が見えたなら、本当の敵が何者であるのかがわかる。
そして、真に恐れるべきものが何であるのかもはっきりするだろう。
しかし、私たちは、神のことばである聖書によって信じるように求められている。
【イエスは彼に言われた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、あなたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。】ヨハネの福音書20章
読んでくださっているあなたの心の目がさらに開かれますように、祝福を祈ります。
人生に心配はつきもの、だけど...
心配事がありますか。
将来に不安がありますか。
病気や老いることが怖いですか。
私自身、そういう気持ちになることが全くないと言えば嘘になります。
聖書には、「思い煩うな」「恐れるな」という言葉が繰り返し出てきます。
私たちは、思い煩いに陥りやすく、恐れにとらわれやすい者であり、日々このような語りかけを必要としている存在ではないでしょうか。
思い煩いや恐れで頭がいっぱいの時、どうしたらよいのでしょう?
そういう時はそれなりの原因もあるわけで、心理的に追いつめられているとも言えます。
不安で苦しい状態が続くと、私たちは具合が悪くて、不自由で、孤独です。
自分ではどうすることもできないから、「助けてください」と祈るかもしれません。
祈ってみても楽にならないと、神様に見捨てられたように感じるかもしれません。
自分が嫌になったり、不幸だと嘆きたくなったり、誰かを呪いたくなるかもしれません。
いつだったか、聖書のメッセージで次のように聞いたことがあります。
---思い煩いは罪です。神ほど真実な方はいないのに、そのお方の力も愛も約束も信用しない不信仰の罪。だから、あなたがクリスチャンであるなら、思い煩っている時にまずすべきことは、悔い改めることです。---
ガツンと頭を殴られたようでした。
自分のつらさで盲目になり、自分がひどい間違いを犯しているとは少しも考えなかったからです。
「神様の愛を疑いやすく、祝福の約束も信じないで不安になる罪、神様が共にいてくださるのに恐れる罪、自分の思う通りにいかないと満足できない自己中心の罪、救いの恵みを忘れる恩知らずの罪を赦してください。私が愚かでした。悔い改めます。」
...と、まず主の前に謝らなければならない自分がいることに気づかされました。
自分の落ち度に全く気づかず、一方的に勝手な期待をし、要求が通らないと裏切られたように嘆く。失望し、関係も冷める...。
私自身、そういうものをもっていると認めざるを得ません。
人間同士だとしても、なんと失礼な態度でしょう。
まして、相手は完全なる神なのです。
神を神とも思わないでいた私たちのために、あがないの十字架を負って死んで復活してくださった救い主なのです。
必要なのは悔い改め...全くその通りだと思います。
思い煩いで苦しいなら、聖書が教えている真理を思い出す時です。
神がどういうお方か、神のことばは何を約束し、私たちにどうあれと命じているか。
不安で仕方ないなら、とりなして祈ってくれるように願い出る時です。
霊的守りが働いて、執拗に心を脅かす欺きの声は砕かれ、自由への道が見えてくるでしょう。
【神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。】ローマ8章
この聖句一つでも、正しく理解し、ほんとうに信じて自分を任せることができるなら、私たちの心と生活はどんなにか守られ、喜びにあふれるのではありませんか。
心配事、失敗、性格的短所、様々な限界、病気、衰え、喪失、困難、不都合な諸事情、難しい関係、社会問題、それらは神が働かせる「すべてのこと」の中に含まれていないのでしょうか。
いいえ、すべてと言うのですから、そこに含まれないものは何もありません。
神様は、みこころのままに、私たち一人一人がキリストに似た者へと変えられるために、すべてのことを働かせて必ず目的を達成されます。
神様には、想定外も失敗もなく、途中放棄もあり得ません。
自分に良いものが見当たらなくても、現状が思わしくなくても、むしろ主への確かな信頼を学ぶために、最高の機会を得ているのかもしれません。
福音により、イエス・キリストを信じて、創造主なる神と和解していること。
これこそ決定的な、最高の幸福なのです。
キリストの福音にいつも戻り、神様に信頼することが勝利です。
神様、聖書を教えられ、信仰を与えられた幸いを心から感謝します!
【信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。】エペソ6章