夫の救いを祈る日々に
三年前、このブログをまだ始めていない頃、私はこんな事をSNSに書いていた。
三浦綾子さんのエッセイ『丘の上の邂逅』を読んでいて、随所で心を打たれる。
少し長いけど、そのまま一部引用。
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「北海道のよさは何か」と尋ねられた。わたしはためらわずに、寒いことだと言った。
もしこの旭川が、きびしく長い冬を持たなかったら、それは何とつまらぬ所であろう。長い冬の中で、人々は耐えるということを学ぶ。自然の厳しさに耐えるということである。それはまた、人生の厳しさに耐えるということでもある。
しかも、ただ漠然と耐えているのではない。
そこには、春を「待つ」という積極的な姿勢がある。
希望がある。待って待って、待ちくたびれるほどに待った果てに春が来る。
春を迎える喜びは、北国の者でなければわからない。
むさぼるように春を楽しむ。道ばたに咲くタンポポにも、庭にふくらむ木の芽にも、大いなる驚きと喜びとをもって、わたしは体全体に春を感ずる。
(中略)
かくして、長い冬を持つわたしたちは、一年の四季それぞれを緊張に満ちた思いで過ごすのだ。つまり寒さが旭川に生まれ育ったわたしを育ててくれた最も大きなものなのだ。
********************
私は東京で生まれ育ったが、結婚して宮城県民になった。
海も山も近くにあり自然が美しく、街も発展し、食べ物がおいしいこの地が、私は大好きで東京に戻りたいと思ったことは一度もない。
北海道とは比較にならないが、私もここに暮らすようになって「東北の夏は短く、冬は長い」とつくずく思っていた。
どんな天候でも朝夕に愛犬フジの散歩をした13年間。
寒さがゆるんでくる気配、冬枯れの地面に小さな雑草の緑を見つけた時の嬉しさ、つくしが顔を出しタンポポの黄色が広がる幸せを、この東北に来て知った。
だから、私も「春を迎える喜びを知る者」の端に加えてもらえるだろうか...。
それにしても、三浦綾子さんのこの文章を読み終えて私の心に広がったのは、
私が待って待って、待っている「春」は、
教会から離れて長い私の夫の救いだ....という思いだった。
夫と共に、主なる神を心から礼拝し、まことに賛美をささげるそのときが、私の待ち焦がれる春だ。
私は確かに春を待っている。
積極的に冬を耐え、信仰をもって待つことを教えられていると思う...。
祈りが心にあふれ、三浦綾子さんの言葉に深く慰められた。
聖書のことばが思い浮かぶ。
『それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』ローマ5:4-5
三浦綾子さんはこのみことばのような方だ...と思わずにいられない。
私も、10年、20年かかっても、このような人に変えられていきたい。
... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ...
三年経った今、私は同じような思いで、いやますます切なる思いで「春」を待ち望んでいる。
このブログにも以前、夫の救いを待ち望んでいることを書いた(神の時を待ち望む - 天国途上 〜生きること思うこと〜)。
私はまだ「春」を見ていない。
しかし、神様が必ず私の春を備えてくださっているという確信は、私自身が信仰に恵まれている喜びと感謝とともに、三年前よりも圧倒的に増していると言える。
良い兆しがないまま三年が過ぎて、あきらめに飲み込まれるどころか、
必ず神様の時が来る!
最善の時が備えられている!
...という希望が私の心を覆い満たす。
それは、私の希望の根拠が純化されてきたからではないかと思う。
漠然とした楽観や人に対する期待ではなく、ひたすらに恵みの神様だけに望みを賭けるようにされたからだと思う。
それ以外に賭けた望みは一つ一つ砕かれてきた10年だったとも言える。
いま、私の希望の拠り所は、神様のみことばにある。
だから、人や状況が私を一時的に悲しませたり疲れさせたりできたとしても、私の希望を奪い去ることは決してできなくなったのだ。
この希望は失望に終わることがない...と私は知っている。
また、夫の救いを願う動機も苦しみの中で問われ、私の本音が明らかにされ、悔い改めに導かれ続けた。
最初は、突き詰めると「自分がいい思いをしたいから」だった。
次は、かけがえのない夫に幸いを得てほしいから...となり、今はそれ以上に主のために、教会のために、夫婦で心を一つにして仕えたいという願いが強い。
主の栄光の証しとなりたい、人々に主キリストを賛美してほしいから...。
今が長い冬だとするなら、
三浦綾子さんの言葉を借りるなら
「長い冬の中で、人々は耐えるということを学ぶ。...春を迎える喜びは、北国の者でなければわからない。」
と言い得えるような、ほんとうの幸いを味わい知るために不可欠な恵みの時そのものを私はじっくり歩ませていただいているのかもしれない。
三年前に私は、「このような人に変えられたい」と祈りをもって結んでいる。
神様はその願いに真実に応えて、これまでの時を導いてくださったのではないか。
春が神様の恵みならば、冬もまた尊く備えられた恵みに他ならない。
主よ、冬が早く終わるように、そればかり考えて一喜一憂し、
厳しい季節に込められたあなたの測り知れない恵みに鈍感で感謝が乏しかったことを赦してください。
冬がなければ、どうして春の感動を知ることができるでしょう。
主よ。
私に待って待って待ち望む忍耐の期間を与えてくださって感謝します!
ブログを読んでくださった皆さん、ありがとうございます。
お祈りくださっている方々に感謝します。
あなたがいま歩んでおられる人生のシーズンに込められている神様の恵みに、あなたの目が開かれ、喜びと希望が増し加えられますように祝福をお祈りします!
来年もよろしくお願いいたします。
創造主であり主権者である神、聖なる主の御名がほめたたえられますように!
【そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり、潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。】イザヤ35:5−7
【見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。】イザヤ43:19
真の友とは...
私は友だちに恵まれている...。
本当に、年々、そのことへの感謝が増し加わっている。
いつの時代も、心を通わせることのできる友が近くにいて、そして卒業後何十年と過ぎた今になっても互いを大切に思う関係が続いているのだから、なんという幸いだろう...。
今になって考えると、神様がこの友達関係の領域を特別に祝福して私が生きていけるように守っていてくださったとしか思えない。
若い頃、「友達、友達」とすぐ口にする私に親が何度か話してくれたことを今でも覚えている。誰でも一度は聞いたことがあるようなことかもしれない。
「本当の友というのは、生涯かけて一人か、せいぜい二人できるかどうかの宝のような存在で、自分のすべてを分かち合えるような人のことを言うんだよ。」
その当時はわかったつもりでいたけど、年を重ねた今、この言葉の重みがわかってきた気がする。
聖書に出会い、イエス・キリストを信じる信仰を与えられて、聖書から愛することを学びつつ生きるようになって、「友」というテーマは私にとってさらに大切なものになってきている。
ある本の一文が私の心をとらえた。少し長いけれどもここに引用させていただく。
霊的相乗作用の原則はクリスチャン生活のあらゆる面に適用するが、聖性の追求においては間違いなく助けになる。私たちには、心を通わせて共に祈り、励まし、必要ならば戒めてくれる人が、少なくとも一人は必要である。この人(または人々)もまた、その人自身の生活で罪を死に至らせる闘争に深く関わっていて、私たちの戦いにも参入することができ、私たちの底知れず深い罪の本質につまずかない者でなければならない。
ピューリタンたちは、《すべてを完全に打ち明けることのできる「真の友」を与えてください》と神に祈った、と言われている。私たちの生活における罪を死に至らせる闘争で私たちの助け手として、私たちが神に祈り求め、また捜し求めるべき友とは、このような友に他ならない。
(『恵みに生きる訓練〜聖性の追求を果たすために』ジェリー・ブリッジズ著より)
前後がわからないと理解しにくい言葉もあると思うが、私たちには真の友が必要であり、また真の友というものが、どういう人で何をし合う関係なのかを考えさせられた。
この友は、心と生活から罪の性質が取り除かれ、キリストに似た者として聖くされていくことに具体的に取り組み、その目的(切なる願い)が共有されている関係。
そのために ---まさにそれを「戦い」と表現しているわけだけれども--- 共に祈り合い、正直に語り合い、励まし合い、助け合うことができる人。
そのように同じ戦いを戦っている味方として同じ目的と同じ基準に生きるがゆえに、「必要ならば戒めてくれる人」なのである。
愛や信頼関係の真価が問われるのは、互いの間に違和感や葛藤が生じた時なのではないだろうか。
共有している目的のために、一時的に互いの間に緊張や摩擦が生じるとしても真実な忠告や戒めの言葉を告げることができるのが真の助けであり、真の友であろう。
聖書にもこのように書かれている。
【あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。】箴言27:5−6
【あざける者はしかってくれる者を愛さない。知恵のある者にも近づかない。】箴言15:12
【訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。】箴言15:32
耳に痛い聖書の真理だ。
戒める者は愛と真実をもって知恵深く語り、聞く側もへりくだって耳を傾ける。
衝動や感情に支配されず、誠実な対話をしようとする。
素直に心から謝ることもできる。
動機は愛だと、互いに信頼しているから…。
そうして御霊によって悔い改めに導かれたり、双方共に真理に気づかされたり、心を一つにして最善を祈り求めることができるだろう。
もう一つ重要なことは、著書の言葉を借りるなら「互いにある底知れず深い罪の本質につまずかない者」ということではないか。
私たちは互いに、ふさわしく助けたり忍耐強く愛するよりも、裏切ってしまったり、大切な人ですら傷つけたり失望させたりしてしまう罪深さを持っている者同士だ。
だから、戒め合うことだけでなく、キリストを互いの間において「赦し合う」ことができる関係でなければ、どうして正直に深く関わることなどできるだろう。
私たちはみな、神の御子であるキリストが十字架で身代わりに処刑される以外に救いの道がなかったほどの罪人である。
絶望的に堕落している。
責任転嫁、自己防衛、自己中心がしみついている。
赦し合うことを抜きに、どうして真の友となり得るだろう。
赦しがあるから、真に愛し合うことを追求し続けることができるのではないか。
傷つく、期待がはずれる、願いに応えてもらえない、イライラさせられる、誤解された、責められた、忙しい、時間がとれない、疲れる、嫌な面が見える、話が合わない、感じ方や考えが違う、気持ちを理解できない、感情的になる、隠す、ごまかす、すれ違う、忍耐できない、環境や立場が変わる、などなど...。
人間関係において、そういうことを完全に避けては通れまい。
そんなことで関係が壊れるなら、厳しい言い方をするなら、それは利害や興味の一致によって成立したただの「仲良し」に過ぎなかったのではないか。
---友であることを追求することは、キリストの愛を追求すること---
これは私の友がクリスマスカードに書いてくれた言葉。
彼女は超多忙な生活にあっても、この言葉どおりに「友であること」を追求してくれている。
また、赦しの友もいる。
かつて私は、被害者意識と不平不満で精神状態を狂わせた時期があった。
心配して自宅を訪問してくれた彼女を前にして「今の私には友だちがいない」と冷たく言い放ったことがある。
しかし、彼女は傷つきながらも私から距離をとるどころか、弁解も反発もせず、友を孤独にさせた自分のあり方を変えようとし、言葉のナイフを振り回しているような私になおも近づいて愛を示してくれた。私には真似できない...と今でも頭が下がる。
彼女の誠実と忍耐と寛容が和解を導き、その愛と祈りによって真の友への扉が開かれた。
彼女は、私が信仰によって回復できるように、心を砕き力を尽くしてくれた。
私は本当に、友に恵まれている...。
神様、ありがとうございます...。
愛するとはどういうことかを聖書を通して正しく知り、キリストに従っていく歩みは、一人ではできない。
神のことばである聖書と十字架のキリストを中心にして互いの人生を分け合う真の友を感謝し、ますます神様に乞い願い続けよう。
私自身が真の友となり得るよう、主にある成熟へと助け導いてください...。
【鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。】箴言27:17
クリスマスを喜び祝うために
美しい飾り付けを施し、クリスマスを特別に祝うシーズン。
教会では特別なプログラムを準備し、チラシも作成して、普段は礼拝に集っていない家族や友人知人、地域の方々に足を運んでいただきたいと祈りつつ働きかける時でもある。
これを読んでくださっているあなたが、いつも教会に通っておられる方でないなら、ぜひこのクリスマスの礼拝に集ってみてほしいと心から祈ります。
イエス・キリストとの出会いを求めるあなたを神様が祝福して、聖書が真実に語られる良い教会に導いてくださいますように...。
今年のクリスマスが、あなたの人生のBefore Afterを分ける日となりますように...。
もしあなたが、いつも教会に集っておられるクリスチャンの方なら、このような質問をさせていただいていいでしょうか。
あなたの教会は、教会に不慣れな方にも親しみやすく温かく、居心地の良いところだと思いますか?
では、あなたご自身は、教会に来られた方に対して親しみやすく温かく、ご自分から挨拶したり、親切に関わることに努めておられますか?
こんな質問を思い浮かべたのには経緯があって、先日教会の仲間たちとミーティングをしていた時に、私自身が昔やってしまった失敗を鮮明に思い出したからだ。
初めて教会に来た人が戸惑うような歓迎がある。
たとえば「ハレルヤ〜感謝します!」といきなり握手するとか、プライベートなことをしつこく聞いたり、馴れ馴れしくしすぎてしまうとか。
一方で、まるっきり無視されているように笑顔を向けられることも声をかけられることもなく、不慣れな方が放置されているようなら、どんなに素敵な演出をして盛り上がっていても疎外感を与えるだけになる。
10年以上前になるだろうか、牧師から聖書勉強を通して数名のグループでリーダートレーニングを受けながら、いま書いたような注意すべき視点も教えられた。
私は、当時の教会における問題意識を共有しつつ、礼拝に来られる方々に積極的に接する実践をしていた。
他の人たちはともかく、私は教えられたことを理解し、それなりにできている...と思っていた。そんな頃だった。
ある日、礼拝が始まる少し前、入口付近にいた私は用事を思い出して端へ移動した。
その矢先に、牧師が近づいてきて私にこう言ったのだ。
「あそこに立っている学生さんの目の前を、いま、自分が素通りしたことに気づきましたか?」
私は振り返ってハッとした。
全く気づかなかった。
つまり、その見慣れぬ学生さんは私の目に入っていなかったということだ。
わざとではないけれども、それは彼を目の前で無視したことを意味していた。
現行犯逮捕されたような羞恥と共に、無自覚の恐ろしさを教えられた瞬間だった。
私はこの時に注意された経験を心から感謝している。
はっきりわかるように注意してもらわなければ決して学ぶことができないこともある。
生涯の宝となる指導だ。
そのように当時を思い出して感謝を述べた私に、牧師は優しく言った。
「では、今度はあなたも、誰かをそのように指導してあげてください」
これまた、心に刺さる貴重な勧めの言葉をいただいた...。
自分が変えられて幸いだと言うだけではなく、他者も変化できるように関わること。
神様への愛、教会への愛、相手を本当に成長させたいという熱心と適切な識別力がなければ、無難でほどよい関わりを越えて踏み込む指導などできるはずがない。
失敗する、無力さに直面する、誤解される、反発される、嫌われる...そういったリスクを避けて安全地帯で自分を守りたいなら、チャレンジすることも無理だ。
課題は常に自分にあり、目の前にある...。
うちの教会はこうだ、あの人はああだ、愛がない、感じが悪い、気が利かない、と問題を見つけるのは簡単だ。
ああした方が良い、こうあるべきだ、と議論することもできるだろう。
しかし、そう言っている自分は果たしてどうなのか。
自分が本当は何をしているのか気づかないのが私たちではないのか。
イエス・キリストは十字架の上でこのように祈られた。
【父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。】ルカの福音書23章
このイエス様のとりなしの祈りは、今、この瞬間も私のためにある。
どこまでも赦しが必要な自分...。
救い主にあがなっていただくしかない私...。
あわれみ深く扱われ、ただ恵みによって導いていただいている私...。
主イエス・キリストは、自分で何をしているのかもわからない身勝手な罪人のためにご自身を捧げようと、この地に降りてきてくださった。
ご自分を無にして、人となって、
降りて降りて降りて...、私たちの間に来てくださった。
それがクリスマス...。
あなたに救い主は必要ですか。
どれくらい必要ですか。
その答えがそのまま、真にクリスマスを喜び祝う心を決めるのではないでしょうか。
救い主イエスさまが喜ばれ、賛美され、真に礼拝されますように!
「脱・無駄遣い」の秘訣
いよいよ12月。
なにかと慌ただしく、気ぜわしい師走だ。
お金もいつの間にか飛んで行く...。
私は聖書を信じるクリスチャンなので、お金も時間も、自分の命や人生も、肉体や能力、家などの所有物も全ては創造主なる神様のもので、私はそれらの管理を委ねられていると信じている。
だから私は管理者として、真のオーナーである神様の喜ばれるような使い方をすることが与えられている責任だと理解している。
そう理解してはいるが、管理者としてはなはだ課題の多い者である(トホホ...)。
女性全般の弱点なのかわからないが、私は小さな衝動買いを重ねてよく失敗する。
高額な物には予算や所持金の都合もあるし、まずまずブレーキが効く。
ところが、「お手頃価格」や「今だけの特価」に弱い。
ちょうど必要な物でもないのに「ほしい!」と感じる。
クリスマス&年末で出費が増えるのは当然という感覚が作動し、街中が買物シーズンを演出してくるから、なおさら無意識で流されやすい。
後で家計簿をつけながら何度自責のため息をもらしたことか...。
しかし、やたら出費をしぶるのが管理でもない。
私にとっては、クリスマスの献金は様々出費をした残りからひねり出すものではなく、すべての恵みの源であるイエス・キリストをほめたたえて最優先で取り分け、精一杯をささげたい。
ふさわしいところに、ふさわしく使うのが良い管理だ。
誰かをもてなしたり感謝の表現として使うお金をケチりたくはない。
助けが必要な人たちにも出し惜しみせず支援したい。
もちろん、自分自身や家族の喜びのために良い買物をしたい。
それらを自分に委ねられている家計に見合った分配で賢く考えなければならない。
弱さを自覚する私が実行していることの一つは、買物の前に祈ることだ。
「神様、良い買物をさせてください」
「欲に目がくらんで余計なものに手を出したら、やっぱり要らないと気づかせてください」
「今から試着するので、本当に似合う一着を気持ちよく決断できるように導いてください」
このような祈りによって、かなり実際的に助けられていると思う。
祈りに神様が答えてくださると知るがゆえに、別の誘惑と戦うこともある。
神様の介入から逃れて思う存分買物したいから、祈りたくない...と考えることがあるのだ。
神様に相談しないで、口出しされずに勝手に決めたい。
借金するわけじゃないし、私の財布で私の好きにしたからって何が悪いわけ?
こういう反抗的な自我が働く時こそ、意志を用いて祈る選択をすべき分岐点だろう。
すべて神様のものなのに自分の思うままにしたいという欲望は、いつも巧妙に出番を狙っている。
これくらいいいじゃないか、たまにだから、クリスマスだし...、言い分は次々に背中を押す。
しかし金額の大小とは関係なく、その心のあり方こそが罪であり破壊的な落とし穴だと気づかなければならない。
神を押しのけて自分がオーナーであり主権者になりたいわけだから...。
欲望も誘惑もなくなることはない。
自分でそれを制圧することもできない。
それでも、自分の罪深さや弱さを知って主の助けを求めるなら恵みによって守られる。
欲望の奴隷ではなく、主の前で恵まれた良き管理者として、顔を上げて清々しく生きる道がきっと備えられる。
それは、いくらかのお金を好き勝手使うこととは比べ物にならないほど、豊かで幸せな人生に違いない。
主よ、あなたの恵みで私を罪から守ってください。
あなたの真理の内に留まる道を絶えず歩ませてください。
【それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。】第一ペテロ4章
愛の神を疑いますか?
神様、厳しいなぁ...。
そんなふうに思う事、ありませんか。
悲しい出来事が重なるとき、苦しい状況が長引くとき、祈っても祈っても解決どころか追いつめられていくとき。
神様は何をしておられるのかと悩みますか。
神様の愛を疑いますか。
ほとんど無意識で自分本位の私たちは、自分を心地よくしてくれることを愛だと認識しやすいと思います。
しかし神様の愛は、時として「悲しませる愛」だと聖書は教えてくれます。
【霊の父(神様)は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。】ヘブル人への手紙12章
神様の愛は真実で、ご自身の子とされた信仰者たちを養育、訓練する働きにも全うされます。
神様は、正しくふさわしく懲らしめる。
私たちの内から罪の性質が取り除かれるため、キリストの性質が豊かに実るために。
私たちが神の聖さにあずかるためになら悲しみを通過させることをも良しとし、御言葉が教える正しいあり方を私たちが真に学ぶために懲らしめの手を中途半端に緩めることはない。
創造主なる神様こそが、私たちの益、つまり人にとって本当の幸せをご存知なので、それを与えるために「愛されていると思われない方法で愛すること」も最善をもって実行できる。
恵みの神であると同時に全知全能の神だからこそ、全うできる愛し方と言えるかもしれない。
神様は、愛することと甘やかすことを決して混同しない。
私たちの感情や態度に操作されることもない。
それが人間である私たちには、時として「厳しい、冷たい」と感じさせるのだろう。
しかし神様は、私たちの課題と共に、私たちの全てを完全に知っていてくださる。
あわれみ、慰め、支え、力づけ、御言葉をもって正しい方向へ導き続けてくださる。
そうして、それぞれの成長段階にふさわしい訓練を絶妙に与え、耐えられないような試練には会わせない。
私たちにはわからなくても、恵みの御手が必ず共にある...。
私は、疑いやすく、浮き沈みしやすい者だった。
自分はすべきことをしないくせに、都合よくやさしくしてほしい甘えから、神の沈黙にいじけたり怒ったりした。
しかし今は、十字架のキリストによって現された愛の神を疑うことは決してできない。
恵みによって、真に幸いな信仰の道を歩ませていただける感謝が尽きない。
聖書の真理をまっすぐに教えられる機会に恵まれ続け、まことの神がどのような方なのかを聖書から学び続けてきたからこそ今がある。
しかし、それでも、置かれている現実を前に弱りきってしまうこともある。
主の御名を呼んで涙をこぼしても、状況は変わらない。
状況は変わらないけど、主はご自身を御言葉で示し、慰めを与え、耐える力を与え続けてくださる。
涙をこぼしながらでも、主キリストを喜び、信頼と感謝を告白し、神様の素晴らしさを賛美する心が引き出されてくる。
私は、神の聖さにあずかりたい...。
解決は見えないし痛みも小さくはないけど、心の平安があり、喜びがある。
神の方法で訓練された人たちに約束された世界に導かれつつあると信じる。
私の周りにも、本当に熱心に主を愛して歩んでいるのに困難や課題を抱え続けて頑張っている信仰の仲間たちがいる。
彼らのことも助けを祈りながら、最後にはこの事にも神様の深い御計画と真実な愛があると信じる告白に導かれる。
なんとなく全部うまくいく、問題もなく快適で心地よい毎日...。
神様はクリスチャンにそんな生活を約束してはいないし、勧めてもいない。
私たちにはやさしく心地よく、望ましく思えても、ずっとそうであることは必ずしも祝福ではないのだ。
神様は愛する者を甘やかさない。
神の愛は完全で、明確な目的をもって実現していく。
その目的とは、私たち一人ひとりがキリストに似た者となって、主の栄光となるため。
神様、あなたの懲らしめを感謝します。
あなたが成すべきことをしてくださらないのではなく、
私がまだ気づくべきことに気づかず、成すべきことをしていないのです。
赦してください。あわれんでください。
主への信頼と忍耐を増し加えてください。
あなたがお望みになる通りに、私を造り変えてください。
【神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。】ローマ8章
人生の下り坂
最近、有料パーキングの駐車券を立て続けに2回紛失した。
出口で精算するための駐車券なので、当然パーキングから出ることができない。
どちらの場合も係の人を通じて管理会社に連絡をとり、身分証明などを経てほどなく駐車場を出ることができのたが、ぐったりと疲れ、心にある種のダメージが残った。
自分が確実に衰えているというダメージだ。
様々な機能が下降してきて、もはや「これまで通り」を維持できなくなる領域に入ったことを自覚させられるダメージ。
人の名前が思い出せない、漢字を忘れる、何を取りに来たのかわからない、新しいことがすぐ覚えられないなど、いわゆる物忘れは徐々に受け入れてきた。
しかし、ほんの数時間前に手に取り、確かに持ったはずの駐車券がどこにもない。財布、バッグ、手帳、ポケット、あちこち探してもない。
いつ手から離したのか、どこに置いたのか、そもそもどこにしまったのか、自分の行動が全く記憶にないというショック。
記憶の糸をたどる糸口すら覚えがないとは...。
50歳が近くなってきたとはいえ、異常ではないか。
先が思いやられる。
健忘症か。
なんともいえない虚脱感に襲われた。
身体や行動だけでなく人格的な部分も司る「脳」の機能低下がこれほど恐ろしく感じるとは思わなかった。
衰えや老いは当然受け入れていくことだと漠然と考えていた。
親も老いて、病気を患い、病院で看取った。
13年間共に生活した愛犬も数年前に逝ってしまい、今は20歳になろうとしている老猫を最期まで世話すべく見守りながら、色々なことを考えさせられている。
これからは夫婦二人家族の老後が待っているのだ...。
そしていずれ、うまくできない、時間がかかる、頑張りが裏目に出る、そういうことが日常生活でも増えていくのだろう。
人の役に立つより、人の助けを素直に受けることを学ぶ必要に直面するのだろう。
嘆きや不平に陥るのではなく、弱さと共に感謝と謙遜さが身に付くことを心から神に願う。
健康こそが宝、健康第一。
そのような言葉に、いつしか私も敏感に反応するようになった。
確かに健康は尊い。
ますます意識して健康管理に努めたいと思う。
年輩になっても元気にもうひと花咲かせようという意欲も素晴らしい。
しかし、「健康」も「命」もいつかは必ず失われていくものだ。
それを健全に受け入れて生きるには準備が必要ではないか。
健康が「最後の砦」なら、その砦はいつか崩れ始め「死」が迫って来る。
あなたにとっての「最後の砦」は何ですか。
家族ですか、キャリアですか、財産ですか、プライドですか...。
私の「最後の砦」は、イエス・キリストなる神様だ。
この砦を乗り越えて私を絶望させることができるものは何もない。
人生後半、これからの喪失期を歩んでいく中で、
なおますます、神のことばは私の避け所、憩いの要となるのだろう。
今のうちに、もっともっと御言葉を内に蓄えておきたい。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ書46章より)
私の望み
こんな私なのに、イエス・キリストは決して見捨てない。
それだけは疑いようもない真実。
そこに、私の希望がある。
キリストだけが私の望み。
この望みだけは、何があっても奪われることがない。
【わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。】ヨハネ14:18
いや、こんな私だからこそ、
救っていただくしか術がない私だからこそ、
イエス・キリストは自らこの地に降りてきてくださった。
罪にまみれて見るべきものが見えず、
正しい道に歩む能力を全く持たない私のために、
キリストが人となって義を全うし、
身代わりとして十字架で神の怒りの杯を飲み干して裁きを受け、
罪人が救われる道を開いてくださった。
【何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。】ローマ4:5
自分が絶望的に思える時がある。
生きる望みが消えそうでもだえる。
しかし、そもそも、自分という存在は絶望的な者だという事実を忘れてはならない。
ちょっとは見込みのある人間のような気でいるから、衝撃が大きいのだ。
そもそも自分はどんな存在で、何がふさわしいのか...。
キリストは絶望的な私に驚いたりなさらない。
当てが外れた...と態度を変えたりなさらない。
こんな奴だったのか...と去っていかない。
だいたい、私がどんなに自己嫌悪したとしても、
聖なる神の前で明らかにされる絶望的罪人の実体からすると、いくらもわかっていないに等しい。
キリストは、私がどうなろうとも、最後まで永遠に、共にいてくださる。
事情が変わっても離れていかない。
決して心変わりせず見捨てない。
これこそ、私の救い。
キリストの愛を知る人生に導かれて良かった。
揺らがない拠り所を与えられていて、本当に良かった。
永遠の御国に心を寄せて、夜は眠りにつき、朝には起きることができる。
たとえ倒れることがあっても、主が絶えず支えてくださるから。
【御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだのあがなわれることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。】ローマ8:23−24
主よ。
この地上で与えられた人生を、
最後まで全うすることができますように助けてください。
あなたの一方的な恵みがそれを成させると知っているので、
私には望みがあります。
私はあなたの御顔を慕い求めます。
みことばの教えを乞い求めます。
あなたのみことばは変わることがありません。
あなたに喜ばれる真理の道を歩みたいのです。
あわれんでください。
恵みの上に恵みを増し加え導いてください。
キリストの御名だけがあがめられますように。