天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

人格的成熟を願うあなたへ

愛、喜び、 平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。

これは、イエス・キリストを信じた人がその信仰生活を健やかに歩んでいくうちに与えられてくる人格的特徴として聖書が約束しているものです。

キリストの御霊である聖霊によってその人に実ってくる品性であることから「御霊の実」とも呼ばれます(ガラテヤ5章)。

クリスチャンになって数年たった頃、御霊の実について聖書から初めて学んだ時のことを思い出します。

牧師先生が 「この中で特にどれがほしいですか?」と質問しました。

当時の私は、「どれもほしいけれど、特にと言われれば喜び平安です」と答えました。
喜びと平安が自分の内にないと実感していたからです。

実感はどうであれ真実は、どれ一つとっても自分にはないものでした。

しかし、当時の私はこう考えたのです。

この2つ以外の「愛、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は、自分の意志と頑張り次第で多少はなんとかなるけれども、「喜びと平安」だけはどうにもならない。

喜んでいるふりはできるけど、喜ぼうとして本当に喜べるものではないから。

また自分にどんなに言い聞かせても感情が不安定でしたから、平安といえるようなものを身につけることは私には無理なんだと痛感していました。

人前では明るく社交的であっても、内面はコンプレックスが強くて落ち込みやすく悲観的な傾向を抱えていることは自分自身が一番よく知っていました。

私のような者に、喜びや平安というようなものが日常的な性質になることなど絶対ないと感じていました。

とはいえ、「他のものは自分でなんとかできそう。これまでにも少しは身につけているかも。」などと考えたこと自体、当時の私がいかに何もわかっていなかったかと恥ずかしくなります。

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、これらが一体どういうものなのか、私はいまだに聖書から新鮮に教えられ続けていると思っています。

ここで一つ一つの定義を試みることはしませんが、伝えたいことは私個人に起きた変化です。

クリスチャンとして聖書を学びながら信仰生活が導かれて約18年、いま、私には「喜び」「平安」も確かにあるということです。

これまでのブログを読んでくださった方なら、多少なりとも私から、喜びや平安を感じていただけるのではないでしょうか。

もちろん、これらの 「実」はまだ小さくて青くて、周りの人たちにまで影響を与える熟した実にはなっていないと思います。

それでも、私の内に「ある」ということが、私自身には確かにわかるし、それが神様の奇跡だと繰り返し驚かずにいられない事実なのです。

私がもともとこういうタイプだったわけではな いと、自分が一番よく知っているからです。

いつ実がついたのでしょう。自分でもわかりません。気づいたらあった!そんな感じです。

まさに天の恵み、フルーツが実るようなものなのでしょう。

さらに補足すると、いま私が体験している喜びや平安は、かつ てイメージしていたような、ほわぁ~んとした心地よいものというより、ネガティブな波を押し返すような力強いものです。神の力を思わずにいられません。

聖書の詩篇1篇には次のような約束のことばがあります。

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。

神様のことばを喜び、主と共に歩む人が「木」にたとえられています。すぐ実がなるとは書かれていませんが、時が来れば実がなると約束されています。

自分の弱さや足りなさは相変わらずありますが、それでも自分が変えられ続けている事実を思うとき、私の心は感謝でいっぱいになります。

私は神様への信頼と期待を大きくし、たとえ状況が思わしくない時であっても 聖書の約束に望みを置きます。

ちなみに喜びと平安以外はどうかといいますと、少しずつですが、小さい小さい実が見えるように思います。 

とはいえ、最初に勘違いしたような考えで、実に似て見えるものを頑張って一時的に出すこともできるがゆえに、むしろ「本当の実り」を知ることが難しいような気もします。

そもそも自分がそれを全く持っていないこと、造り出すこともできないことを、全面的に降伏して認めていることが鍵かもしれません。


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