虚しさに襲われることがありますか
このごろ私は、天国のことをよく思うようになりました。
人間関係のままならなさ、自分自身の欠陥に意識がとらわれ、誰のせいというわけでもなく、それぞれが善意の心で精一杯やっているはずなのに、大切にしてきたものがこぼれ落ちていくような虚しい感覚に襲われることがあります。
もちろん、単に死ぬことを考えているのではありません。
しかし、この世における限界を受け止め、人間が万能でないことを当然の前提として認め、完成やゴールがこの地上にあるわけではないという聖書の真理をへりくだって再確認させられるように思います。
そして、この地上を生きる間は避けることのできない苦しみや悲しみがあっても、最後には無限の幸福が備えられているという聖書の約束を、本当に自分のものとしてリアルに確認することで深く慰められるのです。
私にとって、この肉体で歩む生涯はずっと天国途上です。
途上においても豊かな幸いを与えられていますし、地上の生涯に神様が備えてくださっている恵みをこれからも待ち望んで、感謝しつつ年を重ねたいと思っています。
しかし、同時に、地上においてはどこまでも不完全であり、人間も社会も痛みを抱え続けるともわかっています。
人は期待した通りではないし、自分もまた期待されている通りではありません。
生きることは生易しいことではなく、常に何かとの戦いのような面もあり、孤独と隣り合わせで忍耐するしかないことも多く、苦しみを内に秘めて歩き続けていくようなものなんだなぁ…などと妙に実感させられるときも増えてきました。
それでも、私などは大変なうちに入らないだろうと思っています。
不安になる方向に意識を集中する必要はありませんが、ちょっとニュースを見ても社会は問題であふれていて、格差はますます大きくなり、目まぐるしく変わる情報が氾濫し、あまりにも忙しく何かに追われ、じっくり腰を据えたり、一人静まることができない時代のように感じます。
厳しい困難の中で、助けを得ることもできず、必死に生きておられる方々がどれほど多いか、想像も及びません。
心を通わせ理解し合うこと、
共にいて助け合うこと、
しっかり向き合って一致を見出すこと、
そのようなことがますます厳しくなっているように見えます。
誰もが避けられない問題として、老いとそれに伴う様々な喪失や恐れもあるでしょう。
日本という国そのものの高齢化も深刻です。
しかし聖書は、あらゆる難題を突き抜けて喜びに生きることができる確かな希望を語っています。
自分ではどうしようもないことを受け入れ、悲しい現実に甘んじる中でも、見上げることができる希望。
完全な信頼をもって待ち望むことができる「時」があると。
救い主なる神が、永遠の御国に私を迎え入れるために来てくださる時です。
いつかはわかりません。
でも、必ず、来てくださるとわかっています。
どんなに苦しくても、寂しくても、悲しくても、たとえ最悪と思える状態が続くとしても、それは主が来られるまでの期間限定です。
その時が来たら、主が涙をぬぐってくださると聖書は約束しています。
その時が来たら、主がすべてを新しくし、全能の御手をもって完成させると、神のことばが保証しています。
そこにはイエス・キリストが肉体をもって存在しておられ、私は顔と顔を合わせて主にお会いすることができるのです。その肉声を直接聴くこともできる...。
完全な愛の関係の中で、そこにいる全ての人々が生き生きと関わり合う世界が築き上げられる。
それぞれが自由に個性を発揮し、やりがいのある働きに充実しながら互いの幸福に仕えている世界。
誤解もない、無関心もない、孤独もない、虚無感もない、不信感もない、圧迫もない、病気もない、苦悩もない、失望も落胆もない...。
闇もなく、裏表もない...。
そんなことを想像すると深い慰めに涙があふれ、感謝と喜びが内側に広がり、不安や虚しさに飲み込まれないで今を生きる勇気がわいてきます。
たとえ今、成果と呼べるものが見えなくても、明るい見通しが立たないように感じられても、粛々と負うべきものを負い、あせらず、あきらめず、一歩一歩に集中すればいい...。
そんな落ち着いた気持ちになってきます。
すべて神様のご計画がなるのだから大丈夫だ、と足腰に力が入ってきます。
私にとって究極の希望は、主イエス・キリストご自身であり、主が統治されるリアルな天国生活です。
100%確実に実現するとわかっているからこそ、今のどんな現実にも耐えうる、希望と呼ぶにふさわしい希望…。
耐え難い痛み、深い悲しみ、押しつぶされそうな重圧や出口の見えない困難を抱えておられる方々に、キリストにある永遠の希望が届いていきますように…。
【見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。】黙示録21章