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天国途上 〜生きること思うこと〜

イエス・キリストを信じて、聖書を学び続けながら、ほんとうの幸せに出会いました。 私の日常は平凡なのに感動があふれ、問題や失敗もあるのに希望があふれています。 人生はそのゴールである天国へ向かって変えられ続けています。こんな私が日々思うことを公開します。 仙台市郊外にあるプロテスタント教会在籍。

疑心暗鬼からの脱出方法

疑心暗鬼という言葉がある。

辞書を調べると「疑う心が強くなると、なんでもないことが恐ろしく感じられたり疑わしく思えたりすること」と書かれていた。

疑念というのはある種の先入観とも言えて、見える世界を変え、たいていの場合は疑念を強める方向に人を進ませ、最終的に現実まで変えてしまう力すらあるように思う。

疑いは私たちの精神を疲れさせ蝕む。

そんな不快なものなのに、ちょっとしたことで疑心暗鬼なり、不安でたまらないとか、苦々しい思いが治まらないとかいうことを誰もが体験するのではないか。

思っていることが現実のように心がすっかり乱されてしまう。それで具合が悪くなったり、卑屈になったり、確認行動を繰り返したりして、それでも一度芽生えた疑念はそう簡単に消滅しないだろう。だからこそ苦しめられる。言葉で確かめても嘘かもしれないと疑えば、疑念はくすぶり続ける。

私自身も、夫が私との結婚を後悔しているのではないかと新婚早々に疑心暗鬼に苦しんだことを以前書いた(“愛情不足”への処方箋 - 天国途上 〜生きること思うこと〜)。

あの人は私を嫌っているのではないか、心では私をバカにしているのではないか、本当は私のことなどどうでもいいと思っているのではないか、私はだまされているのではないか、私は失敗して見捨てられるのではないか・・・。

夫婦でなくても、親子兄弟、友人、同僚、上司、ママ友、あらゆる人間関係でこのような疑心暗鬼は入り込む可能性があるだろう。疑心暗鬼から来る精神不安定、人間関係の悪循環から脱出する方法などあるのか。

私は、脱出方法はあると信じる。

私自身、生い立ちの傷から、自分は捨てられるのではないかと疑心暗鬼に陥る傾向に長く苦しんできた。このことについては以前書いた(傷の癒し - 天国途上 〜生きること思うこと〜)が、クリスチャンになってこの自分の傾向に意識的に取り組んできて改善を体験している。今でも疑心暗鬼に襲われることはあるが、その悪循環に陥る頻度は少なくなり、また悪循環に苦しむ期間も短くなっていると思う。

私が意識して実行するのは3つのステップ。



(1)疑心暗鬼を強制終了させる。

「○○と思われているのではないか」「本当は××なのではないか」という疑念が頭をぐるぐるしているのを自覚したら、決まってこう自分の結論を出す。

「そうかもしれない。そうでないかもしれない。でも、それはわからないことだし、本当がどちらでも構わない。」

人の心は変わりやすい。そして、他者の心も周りの出来事も私はコントロールできない。考えてもどうしようもないことだと認識して、どちらでもいいと心を決める。



(2)信頼して絶対安全な土台に自分を落ち着ける。

疑念の反対が信頼だろう。「どちらもあり」というのは不確定であり不安定だ。疑心暗鬼を強制終了したとしても、それだけでは不安は解消されない。そもそも人との関係を土台にしているなら絶対安全ということは決してない。仮に心変わりの心配がないとしても避けられない死や状況の悪化など、先はわからず暗転する可能性はいつでもある。

絶対安全な土台をどうやって見出すのか。

私たちは愛し合う関係の中で生きるようにデザインされている(絆の回復 - 天国途上 〜生きること思うこと〜)。

だから、「何が起ころうと自分は一人ではない。自分がどんな失敗をしようと、世界中の全ての人が私を嫌ったとしても、最後まで決して見捨てない方が私にはいる。永遠に共にいてくださる方がいる。」と言いきれるなら、絶対安全な土台だ。私にとってはイエス・キリストこそ、その方である。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょ う。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らか にしておられます。(ローマ5章)

イエス・キリストへの信頼は、決して裏切られることはなく、失望に終わらない。



(3)疑心暗鬼の対象が人物なら、その人への苦々しい思いを手離す。

私たちは相手が自分をどう思っているかに注目しやすい。しかし、自分はその人をどう見ているのか。

私の主イエス様は、わたしが愛したように愛しなさいと命じるお方だ。そして「あなたは赦された人なのだから赦しなさい」ともおっしゃる。

だから、私は「自分の心」が愛さない方向に進んでいたことを認めて正直に思っていたことをイエス様にお話しする。そして「相手が私をどう思っていようとも、私は愛していきたいです。私の心を変えてください。」と祈る。

そして「このことは終了」と自分に宣言する。(参考記事:愛されて愛する - 天国途上 〜生きること思うこと〜


それでもまた、心がざわざわしてくることはある。別件がやってくることもあるだろう。

私は何度でも1~3を繰り返す

心が自由にされるのをぜひ体験していただきたい。

ちなみに、直接対話で真相を解明するとか、和解のために本当の気持ちを話すにしても、自分の心が愛する方向で自由になってからにした方がいいと私は思っている。

恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。(詩編56)
しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべ てのみわざを語り告げましょう。(詩編73)



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